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カテゴリ:危機の時代を生きる
相手の話を「聞く」ことは 心の「荷物」を預かること インタビュー 臨床心理士 東畑 開人さん
対話できない時代 ――東畑さんの近著のタイトルは『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書)です。「聞く」をテーマにしたのは、どのような思いからですか。
以前から、私たちは「対話ができない時代」に生きていると感じました。そこにコロナ禍が起き、例えばワクチン接種やマスクの着用などを巡って、社会にさまざまな対立がうまれました。しかも、それは単に政治の世界での対立ではなく、友人や家族の間で、もめることすらあります。 対話が大事なのはもちろんそうですが、このような状況で、「対話しなさい」と言っても、けんかして、傷つけ合うだけです。対話を不能としている、もっと根本的な問題を解決しなければなりません。それが、相手の言うことを「聞けない」という問題です。 ここで言っているのは、「聴く」ことではなく「聞く」ことの大切さです。「聴く」は、語られたことの裏にある気持ちに触れること。一方で「聞く」は、語られたことを言葉通りに受け止めること。実を言えば「聞く」の方が、ずっと難しいのです。 例えば、「ちゃんときいてよ」と言われたら、求められているのは「聴く」ではなく、「聞く」ですね。心の奥にある気持ちを知ってほしいというより、言葉にしているのだから、そのまま受け取ってほしいと、相手は思っているわけです。 あるいは「愛している」と言われて、「この人はなにが目当てなのか」と、真意を探りたくなることがあります。そのとき、私たちは、目の前にある言葉を無視しています。また「あなたの言動に傷ついた』と言われて、とっさに「でも、君にも問題が……」と、相手の言葉をはね返してしまうこともあります。 相手の言葉を「そのまま聞く」ことは、本当に難しい。最近は「声を上げる」と言いますが、社会では、切実な本音が言葉にされる機会が増えています。でもそれを、そのまま受け取ることが足りていません。 「聞く」ことができなくなって理由は、二つあると考えています。一つは、物質的に貧しくなっているということ。給料が上がらなかったり、物価が高騰したり。将来に対する不安が高まると、人間が周りの話を聞けなくなります。 二つ目は、価値観があまりに多様化し、相対化しているということ。〝正しさは人それぞれ〟という対話主義が広がり、自分と異なる考えを持つ人と付き合うことに、根源的な難しさがあります。自分が思う〝正しさ〟に固執すると、他者に対する寛容さを失い、関係が悪化していく。その結果「聞く」ことができなくなるのだと思います。 不安が増大して、互いに疑心暗鬼の状態が続くと、その先に広がるのは「周囲が敵だらけに見えてくる」社会です。皆、なんとかして自分を守ることだけに必死になっていく。社会というものが助け合う場所であるならば、そうした状況は、もはや「社会」とは呼びにくいものかもしれません。
「空きペース」 ――「聞く」ためにも、まずは「聞いてもらう」ことから提案されています。
「聞く」ことができないのは、自分の中の「空きスペース」の問題だと捉えられます。不安があふれて、聞けない状態は、自分の中に荷物が一杯に詰まっていて、人の話が入り込むための「空きスペース」がない状態である、と。 そう考えると、「聞く」を再起動させるには、自分の中の荷物を、誰かに「預かってもらう」ことが必要です。それが「聞いてもらう」ということです。 聞いてもらうことで、荷物が詰まっていた自分の中に〝余白〟が生まれる。すると、今度は自分が、人の話を聞けるようになるのだと思います。 現代では、話すことは単なる情報交換のように思われがちです。けれど、そうなると「聞く」には無力感すら漂います。「聞いてもらっても、現実は変わらない」というように。そう考えると、「聞く」 でも実は、聞いてもらうことは、「荷物を預かってもらう」こと。言葉を交わすだけで、自分の中の重たいものが取れていきます。 聞いてもらうということには、「分かってもらえた」「事情を理解してくれた」という実感があり、それが人に安心を与えるということを、私もカウンセリングなどの現場で感じてきました。 不安でいっぱいの人の横にいて、なかなか人に伝わらない複雑な話のまま聞いていく。特別な言葉をかけられなくても、「それはひどいよね」と言ってあげるだけで、その人の心は少し軽くなります。 医師で医療人類学者のアーサー・クラインマンは、全身やけどを負った少女の事例を紹介しています。彼女の治療は激しい痛みを伴いましたが、クラインマンは、その痛みを和らげる手立てが何もないことに絶望していました。しかし、彼がとっさに少女の手をつかみ、彼女が語る痛みや苦しみを聞くと、少女はその前よりもずっと痛みに耐えることができた、と。 人間にとって真の痛みとは、世界に誰も、自分のことを分かってくれる人はいないと感じるかもしれません。「聞く」ことには、現実をすぐに変える力はなくとも、孤独の痛みを癒す力があるのだと思います。
「完璧」ではなく「ほどよく」 身近な人を〝気にかける〟
環境としての母親 ――「聞く」を取り戻す上で、心がける点は何でしょうか。
聞くことは本来、魔法のようなものではなく、日常の平凡なやりとりであるはずです。例えば、「行ってきます」と言われたら、「行ってらっしゃい」と返し、「ちょっと疲れた」と言われれば、「早めに寝なよ、食器は洗っておくから」と答えるように。 こうしたごく当たり前のことを、あたり前にできているとき、「聞く」はうまくいっています。そういうときは、日常生活で交わされた言葉をいちいち覚えてないし、「聞いてくれてありがとう」と、わざわざ感謝もしないものです。 でも時に、この「聞く」がうまく回らなくなることがあります。緊急事態がやってきて、それまでの日常が崩れていくと、私たちは不安になり、聞くことに失敗しはじめるわけです。 これを考えるうえで参考になるのが、小児科医でもあった精神分析家のウィニコットが提唱した、「対象としての母親」は、私たちが今、思い浮かべている母親の姿のことであり、一人の人としてのお母さんを指します。 これに対して、「環境としての母親」は、普段は意識されない母親のことです。例えば、子どもの頃、たんすを開けると、きれいにたたまれた洋服が入っていました。本当は母親が洗濯をし、たたんでくれたからそこにあるのですが、子どもの頃は、そんなことまで考えなかったはずです。 このように、普段は気づかれない「環境としての母親」は、失敗したときにだけ、気づかれます。たんすに洋服が入ってないのを見て、「お母さんどうかしたのかな」と思い出すように。このとき、お母さんは初めて「対象としての母親」として意識されます。 普段は母親の存在が忘れられているということは、子どものお世話がうまくいっているということです。でも成功し続ける「完璧(perfect)」な母親でいると、子どもは何もしなくてよいので、成長しません。母親が、自分の世話をしてくれていることにも気づかない。 だからウィニコットは、よい子育ては完璧だけではなく、「ほどよい母親(good enough mother)によってなされると言っています。「環境としての母親」が、時々失敗するからこそ、子どもは「対象としての母親」を意識します。自分はお母さんに何かをやってもらっていたから、生活できていたのだと気づく。その繰り返しの中で、子どもは成長していきます。 ここで紹介した「環境としての母親」じゃ、「聞く」ことに似ていると私は思います。普段はうまくいっていて、特に意識することなく自然に循環していますが、時々それは失敗する。自分のことでいっぱいになり、相手に考えが及ばなくなったりします。すると、家族や恋人から、「ちゃんと話を聞いてよ」と声が上がる。そうしたとき、私たちは改めて「聞く」を回復しなくてはなりません。 でも、失敗したとしても、やり直せばいいわけです。母親が、今度は忘れずに、たんすに洋服を入れておくように、家族や恋人に「ごめんね」と伝えて、今度はまっすぐに話を聞く。この繰り返しが〝ほどよく〟聞けている状態なのだと思います。
責任が分担されている ――相手の話を聞こうと思えば思うほど、「本当に聞けているのか」と不安にもなります。この点をどう捉えるべきでしょうか。
聞いてもらう側の視点で考えれば、誰かに「心配してもらっている」ということとか、一番大切なのだと思います。 「ちゃんと聞いてもらえたのか」と考えると、ついつい完璧を目指して、せっかくそばにいてくれている人に対して厳しくなりがちです。でも、もっと単純に、自分が大変な事態に陥ったときに「ちょっと今、困っていて……」と言える人、それを心配してくれる人がいることで、「自分は一人じゃない」と思えます。それは、生きる力になります。 聞く側にとっても、「心配する」「気にかける」くらいが、ほどよいと思います。「受け入れる」「寄り添う」だと、仰々しいかもしれません。もちろん、後から振り返って「あの人に寄り添えた」と思うことはあっても、最初から寄り添おうとすると、少し重い気もしますから。 「心配する」「心配される」くらいであれば、対面であってもオンラインであっても、さまざまな手段でよいと思います。形式ではなく、聞いてくれる存在がいるかどうか。LINEのメッセージで「大丈夫?」と送るだけでも、自分がその人を心配していることは伝わりますし、それはそのまま、その人のことを支えることにもなります。 大変な状況に陥ったときに、「あいつも心配してくれているはず」「一緒に考えてくれるだろう」と思える人、がいる。たとえ1%でも、自分の人生つらさを分け持ってくれる人がいる。その人たちは、孤立しません。 時間がたつほど事態が悪化することもあれば、時間をかけることで事態がよくなることもあります。時間は毒にも薬にもなる。その分かれ道は、大変な時間を〝他者と共有しているかどうか〟だと思っています。 孤立している人は、自分一人で何かしようとして、心配してくれる誰かとつながっている人は、時間の流れの中で、事態を好転させることができる。 臨床心理士として高度な理論を学ぶほど、心は本当に複雑だと痛感します。しかし、人のつながりの有無というシンプルなことが、心にとって決定的に重要であるというのもまた、私の実感の一つです。 誰かに心配してもらい、自分も誰かを気にかけるといった、身近で小さなことから、「聞く」が回復され、人生のサイクルが回っていくのだと感じています。 感染症の拡大、度重なる自然災害、世界各地での紛争などによって、多くの人が不安を抱える時代だからこそ、「聞く」ことの意味を見つめ直すことが大切ではないでしょうか。
――インタビューの㊦(明16日付に掲載予定)では、臨床心理士としての考える「信じる」ことの価値、「シェア(共有)」と「イアンショ」という2種類の人のつながりなどについて、さらにお話を伺います。
とうはた・かいと 1983年生まれ。臨床心理士。公認心理士。博士(教育学)。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。沖縄での精神科クリニック勤務、十文字学園女子大学准教授を経て、現在は白金高輪カウンセリングルームを開業し、主宰を務める。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。著書に『居るのはつらいよ』(医学書院)、『野の医者は笑う』(誠信書房)などがある。
【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.2.15
インタビュー㊦
人の心が変わるのは 「信頼感」があるとき。
「敵じゃない」 ――インタビューの前半では、誰かに「聞いてもらう」「心配してもらう」ことが、心の回復につながると語っていただきました。臨床心理士として、メンタルヘルスの不調を抱えた人たちと向き合ってきた経験から、心をどう捉えるかについて教えてください。
『野の医者は笑う』という本で、〝心の回復とは生き方の調整である〟ということを書きました。裏返す場、メンタルヘルスの不調は、今の環境でうまく生きられないという、〝生き方の不調〟でもあります。 目には見えない心は、いかにして回復するか。科学の知だけでは、完全な答えを出すことができず、臨床の知が必要になります。そこに臨床心理士の仕事があるわけですが、宗教もまた、〝いかに生きるか〟を示すという意味では、共通点も多いと感じます。あるいは、歴史と伝統を踏まえれば、最初にこれを扱ってきたのが宗教で、その後に臨床心理学が出てきたというのが実情です。 臨床心理学と宗教。二つに、共通するのは「信じる」ことを巡る営みである点です。 カウンセリングに来られる多くの人たちの多くが、他者を信じられなくなっていて、自分のことも信じられなくなっています。人生に絶望していて、周りは「敵だらけ」と感じています。 だから、彼らがもう一度、何かを信じられるようになるには、目の前の人を「的じゃない」と思えることが必要です。確かに、同じ空間で、すぐそばにいる他者は、危害を加えてくる可能性もあるわけですね。でも、そこで「この人は傷つけてこない」「この人なら話しても大丈夫そうだ」と思えるかどうか。あたり前のようですが、それが第一歩となって、少しずつ、「人を信じること」が回復していきます。 多分、信じるというのは、希望を抱くということなのだと思います。エリクソンという心理学者は、人間の発達段階の最初の課題を「基本的信頼」と言っています。世界は善いものだという感覚を抱けるようになることは、心の発達にとって大事だということですね。だけど、それが課題にされているように、信頼をもつことは難しいというのも実情です。そのためには、安心できる他者が必要なんですね。
シェアとナイショ ――人とのつながりの中で、傷つくことを恐れてしまう人もいると思います。
火とのつながりは本来、両義性を含みます。自分を癒してくれるものでもありますが、時に、自分を傷つけるものにもなりうる。そう捉えられるだけで、心の持ちようは変わってくると思います。 他者とつながるときの二つの原理を、社会学では「共同性」と「親密性」と言いますが、私はこれらを「シェアのつながり」と「ナイショのつながり」と呼んでいます。 「シェアのつながり」は、文字通り、みなとシェア(共有)することでつながる関係です。難しい仕事を一緒にやった同僚、子育てを共有したママ友、青春を共に過ごした友人などです。「同じ釜の飯を食う」と言いますが、時間や場所、活動などを共有すると、私たちは自然に仲間、同志になります。 一方で、「ナイショのつながり」は、例えば恋人やパートナーの関係といった、その人の内緒に一歩、深入りするようなつながりのことです。 「シェアのつながり」の本質的な価値は、傷つきを共有することにあります。ママ友同士で子育ての大変さや、出産でキャリアを中断した悔しさなどを共有していれば、何かあった時に支え合い、励まし合う関係になります。誰かがつらい思いをしたとき、その人の代わりに怒ったり、愚痴を言ったりもします。 互いに傷つきをシェアし、理解し合っているから、これ以上傷つかないように、さまざまな配慮が交わされます。つまり「傷つけない関係」をつくっているといえるのです。 反対に、「ナイショのつながり」は、「傷つけ合う関係」といえます。互いの奥深くにふれようとするからこそ、時に摩擦が起きて、傷つけてしまう。 でもそれは、接触を試み続け、信頼と理解を構築し続けていることの証しでもあるわけです。相手との間に摩擦が起こるのは、関係性を磨きあっていることでもある。 私たちのほとんどは、「シェア」と「ナイショ」のどちらも経験しているはずです。でも、他者が踏み込んだり、踏み込まれたりするナイショのつながりには、傷つくリスクが伴う。だから最初は、シェアでつながる方がいい。 何かあったときに、手助けし合える「シェアのつながり」の居場所づくりは、今、地域コミュニティーやインターネットでも、盛んに試みられています。皆で集まり、自分の傷つきを分かち合う。その場では、傷つけられることを心配せずに、安心していられる。こういうものが心を支えてくれます。 その上で時々、より深いつながりを求めているのも人間です。普段は何でも相談していた仲間や友達と、時々、互いの気持ちや意見を激しくぶつけ合うこともあります。そんな時、私たちは「ナイショのつながり」で結ばれます。全ての人と、ナイショでつながる必要はありませんが、それでも時に、あえて危険に飛び込んで、他者に深入りすることも大切ですよね。 「シェア」から始めて、関係性を深める中で、時に「ナイショ」でつながる。でも、深入りすれも大切ですよね。 「シェア」から始めて、関係性を深める中で、時に「ナイショ」でつながる。でも、深入りすれば傷つくこともある。そのときは、関係性を再構築していく。人間は未熟で不完全な存在だからこそ、その繰り返しなのだと思います。 その中で「この人は信頼できる」「大丈夫だ」といった感覚が芽生えていく。シェアとナイショのつながりを行ったり来たりする中で、根拠はないけれども確実な、相手に対する信頼が育まれていくように思います。
「第三者」の価値 ――近著『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書)では、対話をとおして問題を解決するのではなく、対話できること自体が最終目標である、と書かれています。その際に「第三者」がいることが重要といわれていますが、どういうことでしょうか。
『聞くこと』、「きいてもらう」ことがうまくいくためには、「第三者」がいることの意義は大きいと考えているんです。 例えば、職場の上司との関係に悩んでいる時、その上司に直接話すのではなく、友人にそっと話してみる。自分の複雑な事情を聴いてもらい、苦しい気持ちを預かってもらえると、悩みが詰まっていた苦しい気持ちを預かってもらえると、悩みに詰まった心に空きスペースができます。第三者がいることで、当事者は助かるのです。 仕事の悩みを、職場の異なる友人に話しても、現実的な問題解決にはならないかもしれません。でも、「それはひどいね」といってもらうだけでも、苦しかった心はケアされます。 実際、私たちの悩みは複雑で、すぐに解決できることの方が少ないかもしれません。そうした悩みの中で、様子を見るように、時間がたつのを待つこともありますね。 作家の帚木さんらが紹介している「ネガティブ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える能力)」という考え方があります。これはピオンという精神科医が取り入れた概念ですが、もともとは、赤ちゃんの世話をする母親の能力のことです。ギャーギャーと泣いているのを受け止めて、なぜ泣いているのだろうかと考える。答えは分からないけれど、考える。それ自体がネガティブ・ケイパビリティである、と。それはまさに「聞く力」でもあるのです。 大切なのは、母親がネガティブ・ケイパビリティを発揮できるのは、誰かのネガティブ・ケイパビリティによって支えられているから、ということです。「聞く人」の後ろに、また別の「聞く人」がいる。ケアする人がケアされるという連鎖が、大切なのだと思います。
「ミクロな親切」 ――第三者として身近な人の話を「聞く」ことなら、普段の生活の中で、私たちにも実践できると感じます。
臨床心理士に携わる中で、たどりついた一つの結論は、「心のケアは専門家ではなく、普通の人間同士の支え合いによるものだ」ということです。 すでにお話したように、ケアに欠かせない「聞く」という行為は、日常の、ごく普通の営みです。多くの時間を共に過ごす家族や友人などが、傷ついた人の心を癒すのが、ケアの本質です。 一方で、人のつながりは、時に傷つけるものである。そうした周囲の人同士の支え合いがうまく回らなくなったときに、「聞く」やケアを再開させていくのが、専門家の役割なのです。 医療人類学者のクライマンは、それぞれの地域には人々の健康をケアするシステムがあると言いました。そこでは「専門職セクター」「民俗セクター」の三つが補い合いながら、私たちの心身の健康を保たせようとしています。 専門職セクターは、医師や看護師、心理士などの専門家のこと。民俗セクターは、非公認の専門家という意味で、アロマセラピストや占い師などが含まれます。この二つの境界線は、時代や社会によって変わっていきます。 大切なのは、最後の民間セクターです。これは、同僚や友人、家族といった、専門家ではない人が行うケアのこと。クライマンは、「ケアの主役」は民間セクターであると言います。 例えば風邪をひいたときに、病院(=専門家)に行く前に、自分で治そうとする人も多いですよね。よく寝たり、栄養のあるものを食べたり。そこには、ご飯をつくってくれる家族や、自分の仕事を代わりに担ってくれる同僚など、周りの人によるケアのかなり多くの部分が、民間セクターでなされているんです。 専門家の仕事は、そうした日常の支え合いがうまくできなくなった時に、普通の人間同士のケアを再開できるように手助けすることです。 私たちの周りには、身近な人間同士でケアし合う、つながりがあります。誰かが自分をケアしてくれ、自分も誰かをケアしている。 先ほど、臨床倫理氏は「しんじる」ことを巡る営みだとお話しました。絶望を感じている人を相手にしても、この信じる、臨床心理士としての楽観主義があります。 日常生活の中で、身近な人を気にかけて話す、傷つけたり、傷つけられたりすることがあるとしても、それは、我慢が必要かもしれません。それでもなお「信じる」。それでも「ミクロ(微小)な親切」を重ねることが、より良い社会をつくることにつながるっていくと思います。
【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.1.16 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 8, 2024 04:28:08 PM
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