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カテゴリ:仕事学
逆境に折れそうなときに読む本
まず最初はヴィクトール・フランクルの「それでも人生にイエスを言う」です。フランクルは1905年にオーストラリアのウィーンで生まれた宇田屋人で、のちに精神科医として活躍をしました。もしかするとこの本よりも、ナチス強制収容所での体験をした「夜と霧」をご存じの方が多いかもしれません。 「それでも人生にイエスを言う」という書名だけを聞くと、単純に人生を礼賛する本のように思えるかもしれませんが、これは強制収容所で歌い継がれていた歌の題名なのです。つまり、明日をもしれない絶望的な状況におかれているときに、ユダヤ人たちは「それでも人生にイエスを言う」と歌ったのです。フランクルはそれをあえて書名に使って、逆境に耐える生き方を私たちに示してくれていると言えます。 序章でも触れましたが、熊本大地震の震災の現場を見ると、やはり個人の力ではどうしようもないものが頻繁に起きる時代に成っているように感じます。リーマンショックなどの世界経済の混乱も然りです。予測しがたいことが、自然でも人間の社会でも生じやすくなっていて、それが一人ひとりにとっては逆境という形で人生に降りかかってくるかもしれないのです。 そうした逆境にどう向き合うのか。ただ乗り越えるとか、打ち克つということだけではなく、あえて強い言い方をすると、〝サバイバー〟になってほしいのです。それは単に自分の長い人生の中に位置づけ直して前向きに生きていくことだと思うのです。 「それでも人生にイエスを言う」の全体を貫いているのは、人間は意味を求める存在であり、人生とは生きる意味と価値を求めるという考え方です。しばしば「人生には意味がない」という人もいますが、そういう発言をすること自体、意味を求めていることの裏返しかもしれません。たとえばですが、がんで余命数年と宣言されても、そうしても生きていなければならないと思えるほど、その期間を超えてしばしば生きのびることができるほど、人生は意味を求める存在なのです。 フランクルは、それをニーチェの「力への意志」をもじって、「意味への意志」と呼んでいます。この意味が枯渇したときは、人間はいとも簡単に死に絶えてしまいます。それに近い体験をフランクルは強制収容所でしています。彼は健勝な人たちが、収容所に入れられたとたんに生きる意味を失って、早く死んでいくのを目撃しています。フランクル自身は小柄で、どちらかというと華奢な人ですが、収容所を何か所も転々としたにもかかわらず、どういうわけか生き残ったのです。 本の中で、「私は人生にまだなにを期待できるか」と問うことはありません。今ではもう、『人生は私に何を期待しているか』と問うだけです」(山田邦男・松田美佳訳、春秋社)という一節が出てきます。大切なことは、人生の不遇を嘆くのではなくて、自分に課されたものを自らに問いかけ、それに応えていくことであり、それが生きることだというのです。 課される内容は、人それぞれ異なります。本の中でも、洋服屋の店員である一介の青年が、自分の仕事など取るに足らず、意味が見いだせないということを述べます。そのときフランクルは、「重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです。活動範囲の大きさは大切ではありません。(中略)各人の具体的な活動範囲内では、ひとりひとりの人間がかけがえなく代理不可能なのです。だれもがそうです」と応えています。つまり、あらゆる職業に、それぞれ大きな責任が課せられているのです。そしてそれに気づいた人は、その大きさに身震いするけれども、なにかしら喜びを覚えることができるのです。 この本はビジネスにすぐ役立つハウツーや生き方を示した本ではありません。しかし、今後ビジネスパーソンが社会の中で葛藤したり、深く思い悩んだりすることがあったときに、まちがいなく慰めになると思います。私もこの本からずいぶん教えられ、つらく長い歳月に耐えられたという経験があります。 とても厳しいことを言うようですが、今後、右肩上がりの高度成長期が長時間持続するといった、幸福な時代はもう二度とやってこないでしょう。生活の浮き沈みが激しく、困難な事態にいつ陥るかわかりません。そういう不安と向き合いながらも、仕事や自分のミッションを成し遂げていくには、逆境に耐えられる何かが土台にならなければなりません。フランクルのこの本は、仕事の最もベースになるべき、〝自分にとっての仕事の意味〟についての答えや、励ましを与えてくれたのです。
【逆境からの仕事学】姜 尚中Kang sang-jung/NHK出版新書 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 21, 2024 03:14:25 PM
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