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カテゴリ:文化
ハチ公 生誕100年 東京大学 名誉教授 塩沢 昌 出会えた喜び、生涯忘れず ハチ公は、日本はもとより世界で最も有名な犬といってよい。ハチ公の飼い主の上野英三郎博士(1871~1925)は、東京帝国大学(現在の東京大学)で、我が国における農業工学・農業土木学の創始者である。ハチ公没後80年の2015年に、東京大学の教員有志が呼びかけて広く寄付を募り、東大構内にハチ公と上野博士の像をつくったが、筆者はこのプロジェクトの事務局長を務めていた。 上野博士の教え子でのひとりが秋田県の農業土木技術職員となり、犬好きの恩師のために、生まれて間もない秋田犬の子犬を探して、贈ったのがハチ公である。ハチ公は1923年の11月に大館市の急かに生まれた数匹の子犬から選ばれた1匹である。上野博士は、この頃、他にも2匹の犬を飼っていたが、体の弱かった子犬の八王を自身の寝室に寝かせるなど、ことのほか大事にしてかわいがった。上野博士は1925年5月に大学で急死するので、ハチ公が上野博士と過ごしたのは14カ月に過ぎない。 ハチ公は、通勤する上野博士を毎日渋谷駅に送り迎えしていて、飼い主の死後もそのことを知らずに続けた、と思われがちだが、そうではない。上野博士が勤務していた農学部は当時、駒場にあり、自宅は駒場に近い松濤にあったので、徒歩で通勤していた。ハチ公を含む飼犬たちに大学の門まで朝は見送ってもらい、夕方は出迎えさせていた。渋谷駅を利用することも多かった。それは北区西ヶ原にあった農商務省の試験場に実験指導に行くときや、農業土木事業の現場に視察に行く時であった。農業土木事業の現場は地方の各地にあり、当時は朝鮮や台湾にもあったから、その視察は当時、長期間の出張であったはずである。 ハチ公が渋谷駅で上野博士を待っていたのは、長期の不在の後は渋谷駅から戻ることを過去の経験から理解していたからだと考えられる。帰宅の日を家族に伝えずに長期出張から戻ったこともあったが、それにもかかわらずハチ公が改札口で待っていて、売泥期喜んだ上野博士はハチ公とじゃれ合ってしばらく遊んでいたという。2015年に東大農学部キャンパス内に設立された上野博士とハチ公の像は、この時互いに喜び合う姿である。そしてハチ公が生涯、渋谷に通って求め続けた姿でもある。 上野博士が亡くなった日、ハチ公は大学に迎えに行ったが会えず、家に戻って上野博士の着衣が置かれた物置にここをもって3日間何も食べなかった。葬儀の日には棺の下に入って出ようとしなかったという。犬が人の死を理解するのは難しいだろうが、ハチ公は上野博士に異変があったことは最初から分かっており、渋谷駅に通い始めるのはそれから2年以上経ってからである。最後まで渋谷駅の改札口から現れた上野博士に飛びついてじゃれ合った日のことが鮮明にあったに違いない。それは、過去の習慣からではなく、「忠義」からでもない。自分を可愛がってくれた犬好きな上野博士に、思い出深い渋谷駅に行けば会えること期待してのことと考えられる。このハチ公の思い、人と愛犬との間の愛情の絆に私たちは深く感動するのである。
しおざわ・しょう 1953年、東京都生まれ。77年、東京大学卒。東京大学大学院農学生命科学研究所・農学部教授を2018年に退任。共著に『農地環境工学』(文永堂出版)など。
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Last updated
May 27, 2024 04:20:13 PM
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