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カテゴリ:文化
石川啄木と北海道 石川啄木記念館館長 森 義真
函館、札幌、小樽、釧路―— 広大な自然と人々の出会いが、人間をつくる
歌人・石川啄木(1886~1912)の「26年2カ月」という短い人生における、約1年(356日)の北海道時代の意味は、どういったものであったのか―—端的に述べると、人間としての「幅」を持たせる経験を積み、多くの人との出会いがあった。そして、それは啄木の名声を高めた歌集『一握の砂』第四章「忘れがたき人人(一)(二)」に結実し、その歌集を親しみやすく、味わいのあるものとした、と言い切ることができる。 「日本一の代用教員」と自負していた啄木は21歳のとき、教職を離れて、函館の松岡蕗堂との縁を頼りに津軽海峡を渡り、「苜蓿社」の文学仲間に迎え入れられた。その「苜蓿社」の仲間との語らいが、森岡中学校時代以来忘れかけていた短歌の制作に向かったことは、その後の啄木の文学を考える上で、大きな意義を持つ。 文学雑誌「紅苜蓿」の編集を任され(第6号から)、仕事を得て家族とも平穏に暮らしていた啄木だったが、函館大火に遭い、その後の札幌、小樽、釧路への漂泊を余儀なくされてしまった。 生涯を通じた啄木の職業は、代用教員と新聞社勤め(記者と校正係)の二つだけであり、その二つを経験したのは北海道だった。特に、函館日日新聞における遊軍記者から始まる「新聞」との関わりが、人生の終演を東京朝日新聞社社員として迎えた啄木にとって、根幹をなしている。 また、北海道において多くの人と出会いがあった。函館、札幌、小樽、釧路とほぼ一年で得た人間関係は、啄木という一人の人間をつけるあげるための「幅」を広げた。その典型として、障がいの友となった函館の宮崎郁雨をあげることができる。 明治以降、日本全体が急速に近代化へと好き進んだが、その一つの象徴として、鉄道の普及も大きな要素である。北海道においても例外ではなく、道内の各地に延伸していく中で、啄木は鉄道によって函館、札幌、小樽、釧路への移動を成し遂げた。歌集『一握の砂』の中の限っても、啄木の鉄道に関する歌は「36首」ある。 鉄道による移動は、北海道の大自然の風景を、啄木に身近に感じさせた。渋民村という山に囲まれた自然の中で育った啄木にとって、「自由の国土」と言い表した開拓精神の溢れる北海道の広大な風土は、その人生と短歌の翁影響を与えた。 「26年2カ月」の短い人生の中で啄木は、盛岡中学校時代から渡道する頃までの「浪漫主義」、北海道時代から上京した頃までの「自然主義」、そして新聞社時代の「社会主義」へと文学的な潮流の変遷をたどったが、晩年の社会主義への傾斜や大逆事件に示された新しい思想への理解は、札幌における小国蕗堂との交流や小樽における社会主義演説会への参加に、その糸口を見ることができる。 (もり・よしまさ)
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Last updated
June 25, 2024 04:26:04 PM
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