|
カテゴリ:危機の時代を生きる
人間の善性を信じて 人々を結ぶ宗教の力 インタビュー 宗教学者ミヒャエル・フォン・ブリュック博士
万人平等の原点 ——博士はヒンズー教や仏教、宗教間対話の解釈学などを専門とされ、ドイツの宗教改革者ルターと日蓮大聖人についても発信をしてこられました。二人の特筆する点は何でしょうか。
仏教とキリスト教の歴史を見ると、そのどちらも、初期には予想できなかったような発展を遂げました。 仏教は、釈迦によってインド北部で誕生しました。戒律などが設けられましたが、その内実は、当時のインドの宗教や文化を色濃く反映したものでした。 他方で、キリスト教はユダヤ教の分派として始まりましたが、イエスとその弟子たちの活動は、ローマ世界の片隅を拠点とする地方的なものでした。 仏教もキリスト教も、その出発点において、今日のような世界宗教となって広まることは、誰も予期せぬものだったといえます。 どちらの宗教も、次第に異なる流派が誕生し、さまざまな考え方や慣習を取り込みながら発展していきました。どんな宗教であっても、成熟するにつれて組織化されていきます。そして組織であるからには、常に権力や階層構造が伴います。これが、倫理的又精神的な側面での後退をもたらすことがあるのです。 13世紀の日蓮と、16世紀のルターが直面したのも、この課題でした。彼らはそれを変革するために、それぞれの宗教の原点に立ち返ろうとしました。 日蓮にとっては、万人に平等に仏性が具わるということであり、ルターにとっては、全ての人が神に直接近づくことができるということでした。
慈悲ゆえの批判 ——博士は、時代精神や歴史的背景を理解することが重要と言われています。
その通りです。13世紀の日本は、物質的にも精神的にも衰弱していました。既成の仏教教団は退廃し、社会には貧苦がはびこり、さらに自然災害や蒙古の襲来などが相次いだのです。 こうした社会の衰微と不吉な兆候故に、鎌倉仏教の諸宗派が登場し、それらは互いに対立しました。法然や親鸞は阿弥陀仏への信仰を説き、道元をはじめとする禅師たちは、禅の修行の重要性を主張しました。 これらの宗派は、世間の出来事からは距離をとるという、仏教の伝統的な教えに従っていたといえます。これは、「捨て去ること」を意味する「サンニャーサ」という、インドの慣習に端を発する考え方でした。 しかし、日蓮は違いました。宗教は世界を変えなくてはならない。ゆえに政治にも関わらなくてはならないと主張したのです。それは、おそらく天台宗の一部を除いて、それまでの仏教宗派が主題としなかった、あるいは強く主張しなかった画期的な主張でした。日蓮が生きたのは、「末法」の時代です。当時、宗教は政治的な影響を受ける存在であり、時に権力を諫める存在にもなりました。しかし一方で、宗教そのものが病んでいることもある。日蓮にとっては、それが末法の時代の、人びとの苦しみの原因でした。ゆえに日蓮は、当時の宗教を厳しく批判し、「人類の偉大な宗教批判者の一人」となったのです。 ルターもまた、宗教を厳しく批判しました。霞友瞋恚宗教改革が始まった16世紀後半は、ルネサンス(14~16世紀)の時代にも似て、〝何が起きようと、人生を楽しめばそれでいい〟と言った生き方をする人々がいました。その中で、社会を変革するために行動しなくてはならないと訴えたのが、ルターとその支持者たちです。 ルターの言葉として知られる有名な言葉に、〝たとえ明日、世界が滅びようとも、今日は、私はリンゴの木を植えよう!〟とあります。どれだけ世界が腐敗しようとも、自分は自分にできることをする——それがルターの信念でした。 日蓮は、強い言葉を使って批判を繰り返しました。それは人々を目覚めさせると同時に、人の心と社会そのものを変革するためでした。同じ理由で、ルターもまた、しばしば規範を逸脱した言葉を使い、攻撃的な側面を見せました。 私は、日蓮もルターも、気性が荒く、バランスを欠いた人間だったとは思いません。むしろ彼らが示した過激さは、改革が一刻を争うがゆえのものであり、時代の緊急性に対する返答だったというべきでしょう。人々を目覚めさせるためならば、避難されてでも立ち上がり、声をあげていく。彼らの行動は、全ての人を幸福にしたいという、深い慈悲から発したものであったのです。
社会課題の解決に立ち上がる 日蓮の精神は創価学会の中に
平易な信仰の実践 ——当時の宗教改革について、二人の共通する特徴は何でしょうか。
大きな特徴の一つは、信仰の実践を、より平易でありながら本質的なものへと変えたことです。 日蓮の時代の、例えば真言宗や禅宗には、複雑な修行の形式がありました。しかし日蓮は、誰もができるシンプルな実践でなければならないと主張しました。彼によれば、法華経を読誦するだけで十分であり、さらに、法華経全体もまた、「南無妙法蓮華経」に含まれているゆえに、題目を唱えるだけで十分と述べたのです。 このことを日蓮は、次のように説いています。人間の本質的なものは、顔に表れる。顔は身体全体の六分の一にすぎないが、そこからヒトの全体も推定できる。そして同様に、顔全体は目に還元できる、と(注)。 たしかに私たちは、相手の目を見て、その人が眠いのか、目覚めているのか、疑っているのか、心を開いているかが、すぐに分かります。目というのは「パルス・プロ・トト」——ラテン語で「部分が全体を表す」ものなのです。 日蓮は、法華経全体もまた今日の題名の中に含まれているとし、法華経の真髄をつかむために全体を読む必要はないと述べたのです。 次に、ルターに話を移しましょう。彼は教会の腐敗に抵抗して行動を起こしました。すなわち、金銭で救済を変えるという、「免罪符」への対抗です。ルターは、すべての人間は神に対して開かれていて、その基準となるのは、ただ聖書のみであり、他のものによって語られるものではないと述べたのです。 宗教改革者たちの有名なテーゼは、「神の栄光のみ」「キリストのみ」「信仰のみ」「聖書のみ」「恩寵のみ」という、五つの「のみ」です。このシンプルな形式の信仰実践こそが、ルターを中心とした宗教改革運動の革新であったと、私は考えます。 日蓮にとっても、仏の境涯は、何十年間もの迷走や複雑な修行の果てに得られるものではありませんでした。この改革の社会学的な意義の一つは、日蓮仏法には本来、出家した僧侶は必要ないということです。 もちろん、創価学会や改革派の教会、あるいは他の団体にも、人びとを教え導くリーダーは存在します。しかしそれは、誰かが他より優れていることを意味しません。皆、本質的に平等なのです。 子の理解に立っていたことが、20世紀末、創価学会を、日蓮正宗とは決定的に違う団体へと位置付けたといえます。その歴史の重要性は、社会の世俗性が一層進む現代において、強調してもしきれないのです。 (注)御書に「人の身の六尺のたましいも一尺の面(かお)にあらわれ、一尺のたましいも一寸の眼の内におさまり候。また、日本と申す二つの文字に、六十六箇国の人畜田畠・上下貴賤・七珍万宝、一つもかくること候わず収めて候。そのごとく、南無妙法蓮華経の題目の内には、一部八巻二十八品六万九千三百八十四の文字、一字ももれずかけずおさめて候」(新2099・全1402)とある。
内省を忘れない ——ドイツをはじめ、各地で学会員との交流を重ねてこられました。
私は1977年、フーゴ・エノミヤ・ラサール神父(1898年~1990年)の招待で、初めて日本を訪れました。当時、私は東ドイツのパスポートを所持していました。 宗教否定の国から来た、キリスト教徒の研究者でしたので、少なからず興味を持っていただいたのだと思います。大学など様々な場所で講演しました。ある講演はテレビでも放映され、それが創価学会の目に留まったようです。私は創価学会本部に招かれ、有意義な懇談の機会をいただきました。 創価学会のことは、ほとんど知りませんでした。創価学会の研究に真剣に取り組んだ、最初のドイツの宗教学者であるヴェルナー・コーラーの著作は読んでいましたが、事前の知識はそれだけでした。 語らいはとても友好的で、私はたくさん質問しました。また、日本滞在中、創価学会の活動にも参加し、勤行・唱題をする様子を見たことで、大変、興味が湧きました。 当時、京都にいた禅宗の友人の中には、〝創価学会は政治的で、危険だから、気を付けた方がいい〟と言ってくる人もいました。彼らの立場は尊重しますが、実際に創価学会をこの目で見た私の立場は、全く別のものでした。むしろ、伝統的な仏教を、新しい形でよみがえらせている運動について、もっと知りたいと思いました。 人類が継承してきた宗教的精神は、社会が直面する課題の解決に、いかに役立つのか——東ドイツから来た人間の旺盛な探究心は、想像に難くないでしょう。 創価学会の牧口初代会長と戸田2代会長が、ともに教育者であったということに、私は深い意味を見いだします。戦時中、二人は軍国主義に抵抗して迫害されました。しかし、創価教育学会を創立し、日本の再建へと立ち上がった二人の闘争は、変革への大きなうねりを起こしました。それは彼らが、教育的な変革の手段、すなわち、漸進的な手段を用いたからにほかなりません。 戦後の荒廃の中、人々は、平和を築く基礎となる「尊厳性」を求めました。それが、創価学会が大きく発展した理由であると私は考えます。創価学会で、人々は前向きさを取り戻し、挫折を乗り越え、生きる方向性を取り戻すことができたのです。 世の中が堕落したときには、優しい態度で応じるのではなく、立ち上がり、変革を起こさなくてはならない——この日蓮の精神は、創価学会に脈打っています。ゆえに創価学会は政治にも関わってきました。 政治に関わりは、批判を受けるのは常です。自分が行動する以上は、時に自分の手が汚れるのは避けられないことなのです。 大事なことは、たとえ自身の行為が完璧でなかったり、批判を受けたりしても、常にな為政する態度を忘れず、「自己批判」をし続けられるかどうかです。
皆が持つ尊厳性 ——批判を恐れて〝座したままの宗教〟になってもいけないですし、同時に、個人や組織が健全であり続けるために、「自己批判」が大切なのですね。
「批判者は最良の友人である」。これが、仏教とキリスト教が教えていることです。批判者は、自分を映し出す鏡のような存在です。自分がどこで道を踏み外したのか、自信過剰であったのか、謙虚さに欠けていったのかを教えてくれるかです。鏡があるからこそ、私たちは自身を改善していけるのです。 自己批判の態度を磨くうえで、大切なことは何でしょうか。一つには、自分に自信を持つということです。揺るがぬ革新なくしては、簡単に批判に吹き飛ばされてしまうからです。 そして第二に、批判の対象は「行為」であり、「人」でないと理解することです。誰かの行為を批判しても、その人自身の人間性を批判してはいけません。 たとえ悪行を犯しても、それでもその人には、「尊厳性」が具わっている。仏であり、イエスであると、信じられるかどうかです。不完全な人間かもしれない。それでも改善する余地もあるのだ、と。 どのような状況にあっても、目の前の一人の「人間としての価値」を見いだせるかどうかが重要です。たとえ戦争においても、特定の人物を悪魔化しているだけでは、分断を生み、争いは一向に終わらないと私は思います。 もちろん、残虐な行為は許されるべきではありません。しかし同時に、誰かを悪魔化することによって、私たちは、人間を信じるという最も大事にしているはずの価値を、自ら手放していることを知らねばならないのです。 仏教もキリスト教も、全ての人に慈愛をもって接することを教えます。人間が持つ善性を信じ、その信頼に基づいて対話することによってのみ、対立する人間同士を結ぶことが可能になります。この宗教的精神を、数世紀も前に体現したのが、日蓮でありルターでした。 二人の宗教改革の精神的遺産は、今日のような危機の時代に、一層輝くものであると私は思うのです。
Michael von Bruck 1949年、ドイツ・ドレスデン生まれ。同国のレーゲンスブルク大学教授(比較宗教学)などを経て現在、ミュンヘン大学教授(宗教学)などを経て現在、ミュンヘン大学とオーストラリアの私立リンツ・キリスト教大学の名誉教授。専門はヒンズー教、仏教、宗教間対話の解釈学。『永生か再生か? ヨーロッパ文化とアジア文化における死、来世への希望』『仏教入門』『仏教とキリスト教:歴史、対決、対話』など著書多数。
【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.5.6 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 10, 2024 04:49:10 AM
コメント(0) | コメントを書く
[危機の時代を生きる] カテゴリの最新記事
|
|