|
カテゴリ:文化
ハプスブルク家の起源を紐解く 法政大学名誉教授 川成 洋
700年にわたって地位を継承 ハプスブルク家の起源は11世紀と言われている。彼らが定住していたのは、現在のドイツ、フランス、スイスの3国が境を接するライン川上流地域の見晴らしの良い丘陵地に建っていた「ハピヒツブルク城(鷹の城)」であって、それがやがて「ハプスブルク城」と呼ばれ、一族の名前の由来となった。この城の地域一体こそ、ハプスブルク家の揺籃の地であった。 城の創建年代は1220年もしくは1230年。白の一体に地歩を固めたハプスブルク家は、十字軍遠征で没落した豪族や騎士階級、嗣子がいなくて相続者の絶えた豪族などを自陣に取り込み、次第に勢力を拡大し、伯爵格の小領主になっていた。 ところで、神聖ローマ帝国の皇帝になるには、3名の大司教と4名の世俗諸侯からなる選帝侯の選挙でドイツ王に選ばれ、ついでローマ教皇によって戴冠されて皇帝に即位するのが通例であった。ところが1250年から、選挙で選ばれたドイツ王の位はその対立王によって奪われるなどして安定せず。「大空位時代」が続いた。 1273年、ローマ教皇グレゴリエス10世が強力な十字軍の遠征支援と大空位時代の終結を帝国に働きかけた。帝国は国王選挙に動き出した。さっそく名乗りを上げたのは、フランス王フィリップ3世、チェコ王オカタル2世だった。だが、選帝侯は2人の立候補者に対して拒否反応を示した。と言っても、彼らは手の内にコマを抱えているわけではなかった。あまり権力欲もなく、財力もささやかで、君主の器ではない。つまり選帝侯には無害の人間、という理由で55歳のルドルフ・フォン・ハプスブルクに白羽の矢が立った。幸運にも、選挙結果が満票だった。 この選帝侯の評決に反対したのは、チェコ王のオカタル2世だった。ドイツオウルドルフ1世はオカタルの不法な領土略奪を断罪し、彼の帝国追放を宣言した。1278年、ウィーン北方のマルヒフェルトの会戦で彼を戦死させた。ルドルフがオカタルから没収した領土オーストラリアはハプスブルク家の発展を支える勢力基盤となった。 1273年から1918年まで約700年間にわたって、ハプスブルク家はヨーロッパの激動する政治状況にも、またヨーロッパ文明の伸展にも、その基底部においてたえず関わり続けてきた。その影響する領域はヨーロッパ全域に及んだ。
ヨーロッパ文化の進展に絶えず関与
16世紀になり、イスラム帝国、プロテスタント勢力、覇権主義のフランスの3大勢力と干戈を交えるべく、ハプスブルク家はスペインと雅な同盟を築く。711年からイスラム教徒に支配され、1492年にレコンキスタ(国土再征服戦争)に勝利したスペインのカトリック両王との間で、相互の皇太子と王女との襷掛け結婚に成功したのだ。カトリック両王の孫が16歳でスペイン王カルロス1世として、19歳でローマ皇帝カール5世として即位する。彼の版図は両祖父母から引き継いだために「陽の沈むことのない大帝国」と言われた。しかし、カール5世の死去(1558年)後、実弟がローマ皇帝を継ぎ、長男がスペインを継ぐことになる。ハプスブルク家が系統分裂するが、やがて両系統が提携することになる。 たしかに、ハプスブルク家は、この700年間にわたって子孫代々、脈々と君主の地位を継承し続けてきたが、その間に、ハプスブルク家が逼塞するような時期もあった。それにしても、ヨーロッパにおいて、国名の代わりにそれを統治している王家の名が使われているのは、このハプスブルク家だけであった。 (かわなり・よう)
【文化】公明新聞2023.5.7 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 11, 2024 05:18:55 AM
コメント(0) | コメントを書く
[文化] カテゴリの最新記事
|
|