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カテゴリ:文化
人生とは、死とは 没後100年 有島武郎が投げかけるもの 先日、長野県軽井沢町の公民館をメーン会場に、有島武郎研究会の第73回全国大会が開かれ、講演や研究発表などがなされた。今年は有島の没後100年ということもあり、彼が活動の拠点とし終焉の地でもあった軽井沢での開催となった。同大会では、有島の小説『迷路』をめぐる研究発表がなされ、北海道大学の中村三春教授が「有島武郎と子どもの現代芸術」と題し、講演を行った。さらに、有島の晩年の思想について3人の研究者から有島の著作を基に論点が提示され、活発に議論が交わされた。 没後100年を経てもなお、多くの研究者によって活発に研究されている有島武郎とは、どのような人だったのだろうか。 有島武郎は西南戦争の翌年の1878(明治11)年に、旧鹿児島島津家の支族に仕えた家の出で大蔵省に勤める有島武の長男として東京に生まれた。母は旧南部藩江戸留守居役の娘、画家の有島生馬と小説家の里見弴は実弟。公明党草創期から衆院議員を8期務めた有島重武氏は甥にあたる。
留学を期に本格的な執筆活動 個性伸ばす愛の「本能的生活」
文明開化の時代に適応できる「和魂洋才」を身に着けることを企画した両親の遺構で、幼くして英会話などの個人教授を受ける一方、武術の稽古や論語の素読などをスパルタ式に施された。この時期通っていた欧米風教育を行う学校でのエピソードが、童話『一房の葡萄』に描かれている。 その後、学習院中等科を卒業した有島は、両親の影響を逃れるように札幌農学校へ進んだ。友人と定山渓への心中行などの末、有島はキリスト教に入信。同学校卒業後、入営を経てアメリカ留学した。 留学時代、トルストイの日露戦争への反戦メッセージに刺激を受け、ロシア文学やマルクス主義、ホイットマン、イプセンにも触れた。それが帰国後の執筆活動に入る端緒となった。小説だけでなく『惜しみなく愛は奪ふ』など優れた評論を多く残す有島の社会観や精神世界に、留学期が大きく影響を与えているとする研究者は多い。 有島は帰国後、母校で教鞭を執るとともに、民衆は戦争を望んでいないとして植民地への野望を露わにする日本政府を批判。雑誌『白樺』の創刊に参加し、作家として活動を本格化させる。その後、雑誌記者としての衝撃的な心中迄の数十年間に『或る女』『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『小さき者へ』をはじめ、現代も読み継がれる名作を次々と発表した。ちなみに『小さき者へ』で呼びかけられている母を失った3人の幼い息子のうち、長男は黒澤明の『羅生門』をはじめ数々の名作に出演。映画黄金期を飾る名優の森雅之だ。 明治維新後の日本の自我探求の一つの完成とも呼ばれる『惜しみなく愛は奪ふ』で有島は、『大自然の意志』の現れである『本能的生活』(※この「本能」は、一般的な意味での「本能」ではなく、「愛」を指す)が真に個性を伸ばすことのできる理想的な生活であるとする。また『生まれ出づる悩み』で有島は、「人間というものは、生きるためには、いやでも死のそば近くまで行かなければならないのだ。』とし、死への緊張感がなくなったり、死へ近づく冒険を躊躇したりすると死は即座に訪れると述べる。 人生や死についての哲学的な問題を、有島は現代の私たちに投げかけているよう。 (K・U)
【文化】公明新聞2023.6.23 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 17, 2024 05:00:55 AM
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