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カテゴリ:危機の時代を生きる
自分の軸を固めることが多様社会の価値になる 京都精華大学のウスビ・サコ教授は、2018年から22年まで、同大学で、アフリカ出身初となる日本の大学の学長を務めた。日本社会に暮らして32年。生き方も価値観も多様化するこの時代に、「自分の足元を固めることが大切」と教授は語る。日本の若者たちへのメッセージを聞いた。(聞き手=萩本秀樹)
インタビュー 京都精華大学 ウスビ・サコ教授
足元を見つめる ——サコ教授は、西アフリカのマリ共和国で生まれ育ち、中国留学を経て来日されました。異なる文化路の出会いは、どのような影響を与えましたか。
マリの高校を卒業後、国に選ばれた奨学生として、中国に留学しました。留学先の北京へ向かう途中、フランスのパリに2、3日滞在したのですが、道路やトイレを清掃しているのが、アフリカ系の移民ばかりであることに気付きました。 マリは、フランスから独立した国です。「フランス的」な価値観の中で育ったにもかかわらず、そのフランスで、アフリカの同胞たちが厳しい生活を送っている。尊厳が崩れ落ちるような思いがしました。 中国でも、偏見や差別を経験し、アフリカ人や黒人であることを意識する場面が、多くありました。もちろん、マリにいるときから、私はアフリカ人であり、黒人であったわけですが、それを深く考えたことはなかった。その当たり前が問題視されたことで、「自分とは何者か」を、見つめ直すようになりました。
——2002年に日本国籍を取得されました。「お客さん」ではなく、日本文化の中で生きようとの思いからであったとつづられています。
マリでの私は、努力して優秀な成績を収め、ある意味で社会から認められていたと思います、でも、私がマリでどれだけエリートであったといっても、中国や日本の人たちにはどうでもいいことです。ゼロの状態からスタートして、尊敬される人間としての価値をつくろうと思いました。 日本に限らずどんな社会にも、〝よそ者コンプレックス〟はあります。海外から来た人のことはよくわからないから、排除してしまう。彼らも彼らで、社会に入ろうとはしません。その結果、お客さんのまま帰っていく外国人は、いくらでもいるわけです。 私は、異なる価値観を排除するのではなく、〝追加〟していくことで、社会はよりよくなっていくと思います。だからこそ、自分の価値観を共有し、私も皆さんの価値観を受け入れてきました。 その上で、国籍を取得したからと言って日本人になったのではなく、私のアイデンティティーはあくまでも、マリアンジャパニーズ(マリ人であり日本人)です。日本文化に同化したわけではない。その点は誤解されないよう、言い続けてきました。 来日当初は、日本人のようになろうとする自分もいました。でも途中で、〝基礎が全然違うな〟と気づくわけですね。どう頑張っても、私は日本人にはなれないな、と。 むしろ、日本の多様性を象徴する存在になればいい。マリ人として日本社会に適応するほうが、意味があると考えました。実はそうした生き方は、私が受け止めがたいような際に遭遇した時、〝彼らはそういう価値観で生まれ育ったから、違って当然だ〟と思えることで、自分を救ってくれることもありました。 多様化する社会で大切なのは、「人とは異なる自分自身」を維持すること。足元を大切にするということですね。 私自身、日本で壁にぶつかるたびに、自分が大切にしている文化や価値観とは何かを考えました。日本に住んだおかげで、マリについてより深く知ることができたと思っています。
「空間」の考察 ——サコ教授は建築学が専門です。研究テーマの一つである「空間人類学」について教えてください。
建物をつくるときには、その地域にどんな人が住んでいて、どんな行動パターンをとっているかで、その空間に求められる条件が変わります。人がどんな機能に不便を感じているか、どんなこだわりを持っているかなど、建築家の視点ではなく、そこに暮らす人の視点から、「使いやすい空間」を考える研究をしてきました。 きっかけとなったのは、博士課程にいたときに、マリで開いた後援会でした。 当時、私は大学院で、作り方や素材などで環境に配慮する「環境共生建築」について研究していました。自分なりに、建築の技術や手法を磨いてきた自負もありました。その経験を故郷に還元しようとの思いで、大規模な講演会を開催したのです。 ところが、会場の反応は散々でした。「君はエゴイストだね」と言われました。〝省エネ〟って言うけど、電気が来ていないのに何を省くの? 風通しを良くって言われても、窓は閉まらないから風は通りっぱなりだけど? 独りよがりな自分を反省しました。でも同時に、この経験こそが、マリの住居の素晴らしさを再確認する機会になりました。 合理性や機能性を追求する近代建築では、ダイニングと心室が同じ部屋であることはないように、機能と空間は一対一の関係です。一方、マリでは、中庭が調理の瞬間は台所になり、調理が終われば別の機能を持つというように、空間に複数の意味が与えられます。日本の畳の部屋も、そうですね。ちゃぶ台を出せばダイニングになり、布団を敷けば寝室になります。 人々を隔てる空間もあれば、人々を結ぶ空間もあるように、人間の行為によって、空間に意味がつけられていきます。こうした気付きが、現在の研究につながっていきました。
迷惑をかけても「お互いさま」 本音で語り合えるつながり
不寛容の根っこ ——そうした空間の考察が、「空気を読む」文化を考えるヒントになったといわれています。
その通りです。日本の空間の美では、「余白」が大事にされますね。隙間から光が咲きこんだり、雨音が響いたりといった、偶然の自然現象を生かした奥ゆかしさが、空間を豊かにしている。こうした余白は、日本独特の「間」の論理によって成り立っていると考えました。空間づくりだけでなく、例えば演劇などにも、時間的な「間」があります。 この「間」は、それ自体は主役ではなく、目にも見えない、非常に抽象的なものです。そして、「空気」もまた、非常に抽象度が高いものです。直接的な言葉ではなく、文脈や暗黙の了解が共有されているのを前提にして、コミュニケーションがなされています。 日本語を覚えたての頃、知人から、「近くに来たらいつでも立ち寄って」と言われたことがあります。いざ訪ねてみたところ、〝本当に来ちゃった⁉〟と驚いた顔をされました。空気を読めない私は、リップさーぶすだと気付かなかったのです。 人が無意識に持っている、相手に対する期待を、「役割期待」と言います。言葉で伝えていないのに、相手がその裏を理解していると、勝手に期待してしまう。日本でよく目にした、「空気を読む」事例です。 分かってないのに分かったふりをしている場面や、言いたいことがあるのに言わない場面も見てきました。大学のゼミ旅行のチーム分けをする際、学生の一人がこっそりと研究室に来て、「あの人と同じ部屋は嫌だ」と言ってきたことがあります。皆の前で言ったら空気を壊すので、「空気を読んだ」と。 日本人が空気を読むのは、協調性の表れだという人がいます。でも私には、本音を言えずにその場をしのぎ、らで不満を募らせたり、分かり合うのをあきらめたりすることは、かえって人間関係を冷淡にしているようにも思えるのです。
——「空気を読む」習慣が、他者を排除し、内側に閉じ込めるために利用されることに、警鐘を鳴らされています。
今、京都の街を歩いていると、「民泊反対」の張り紙をよく目にします。近年、外国人が京都の民家を購入し、民泊として提供する流れが増えているのを、怖いと感じる住民がいるからです。この「反対」の意思表示は、自分たちが支配されるという恐怖感の表れでもあるでしょう。 でも、外国人が入ってきても共存できる自信があれば、わざわざ民泊に反対する理由はありません。 弱い状態でいると、よそ者は脅威に映ります。不寛容の根っこには自信の喪失があり、不安が強いときほど内輪で絆を確認しあい、ゆえにますます閉じていく——アメリカの社会学者リチャード・セネットは、そう洞察しています。 自分の軸となるアイデンティティーを固め、揺るがぬ価値を築き上げていくことが、いかに大切であるかを改めて思います。
責任を伴う自由 ——2018年に学長に就任し、「自由論」を共通科目として取り入れられました。
京都精華大学は、「自由自治」を見学の理念に掲げて創立されました。私が学部長時代に始めた「自由論」の授業が、今では全学の共通科目になっています。 学生に自由の条件に付いて聞くと、「スクールバスの本数を増やしてほしい」「授業を減らしてほしい」等、何もかもが「ほしい」なのです。誰かが自由を与えてくれると、誤解しています。本来、自由とは自分で獲得するものです。 そして、自由には責任も伴います。あれも欲しい、これも欲しいと求めて、たとえ全てを手に入れたとしても、それを受け入れ、使いこなすだけの器があるのでしょうか。情報過多のこの時代、〝受信機〟である自分の処理能力を、はるかに超える情報を取り入れすぎて、心も体も追い付いていないように思います。 自由を手に入れて、知識や生き方の選択肢が増えることは、自治(自らのことを自らの手で処理すること)が伴います。それが、本学が掲げる「自由自治」です。
——困難な時代を生きる若者に、メッセージをお願いします。
先日、ほかのインタビューで、京都の学生時代に楽しかったことを聞かれて、「無駄な時間をたくさん過ごした」と答えたら、それは生地にできませんと言われました(笑)。 いつも頭や心を働かせ、どんどん詰め込んでいくことが、日本では価値とみなされるのでしょう。でも、何もしていない時間にも価値があるのではないかと、私は思います。 日本社会は、どこに「オン」と「オフ」があるのか分かりません。常に、「オン」。映画を見るのが趣味だと言ったら、すごい熱量で映画の魅力を語られたことがありました。もっと軽い気持ちで映画を楽しめばいいのに、と思います。 一番、リラックスできるはずの友人同士でいるときでさえ、皆さんは、どこか緊張していませんか。 きっと、「オフ」の自分に対して不安を感じるのだと思います。それは、小さい頃から、何かの役に立っていなければならないという、プレッシャーを感じて生きているかもしれません。だとすれば、とても生きづらい社会です。 時には少し肩の力を抜いて、だらだら生きようと伝えたいですね。そして、そうしている誰かを見ても、そのまま受け入れてあげることが大切です。
——自分らしくいられる関係性を持つことが、生きづらさの解消につながるといえるでしょうか。
そう思います。マリには、「どれだけ迷惑をかけ合えるか」を重視する「グレン」という組織があります。10代のころに同世代の10~20人で形成され、勉強や生活、恋愛のことなど何でも共有し、その関係性は大人になっても続きます。 大事にしているのは、けんかしても引きずらないことです。仲直りできると分かっているので、不満も言うし、ぶつかり合いもします。当たり障りのない付き合いではないのです。迷惑だろうと思うことも、遠慮せずに相談する。面倒くさいことも多いけれど、それを受け入れながらともに成長していく関係性です。 誰かが幸福にしてくれる時代ではありません。自分たちの幸せや社会の進路について、若者同士で対話して、ともに造り上げていく姿勢がますます重要になると思っています。本音で語り合い、頼りあっていければいいですよね。 迷惑かけるけど、「お互いさま」と言い合えるような、緩やかなつながりを持つことが、きっと人生の支えになると思います。
Oussouby SACKO 1966年、マリ共和国に生まれ、高校卒業後、国費留学生として中国に留学。北京言語大学、盗難学院を経て、991年に来日。92年、京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程入学。99年、同博士課程修了。博士(工学)。京都精華大学人文学部教員、学部長を経て、2018年から22年まで同大学学長。アフリカ出身として初めて、日本の大学の学長を務めた。著書に『サコ学長、日本を語る』『ウスビ・サコの「まだ、空気読めません」』『「これからの世界」を生きる君に伝えたいこと』など多数。
【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.7.22 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 15, 2024 05:15:58 AM
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