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カテゴリ:文化
文芸家は戦争をどう詠んだか 歌人 酒井 修一 「歌」は利害を超えて人に寄り添う心の産物 日露戦争回線から三か月がたった一九〇四年五月、森鷗外は陸軍軍医部長として遼東半島に上陸する。
白きおくり黄なる迎へて髪長き宿世をわぶる民いたましき 『うた日記』 森 鷗外
ここは董家屯という町。白人のロシア軍が撤退し、入れ替わりで「黄なる」日本軍が入ってくる。現地の中国人(「髪長き」は満州族の辮髪だろう)は嫌でもこれを迎えなければならない。何の宿縁か、次から次へとひどい目に遭い続けるのだ。 日本軍にとても、凄惨な戦いは目の前に迫ってくる。しかし、鷗外はこの町で、高らかな進軍の歌ではなく、現地の人々に深い同情を寄せるような短歌を詠んだ。軍医部長といえば、少将待遇の高官だ。一方で戦意高揚に努めながら、他方でこんな作品も残したのである。軍人である前に一人の人間として、世界と向き合っていたのだ。
涙拭ひて逆襲し来る敵兵は長き広西学生軍なりき 「アララギ」一九三九・八 渡辺 直己
時代は下って二中戦争のさなか。漢口(今の武漢の一部)で日本軍に挑んでくる敵兵を見やる。すると、その髪型から。彼らが広西の少数民族の出であることがわかる。漢民族の正規兵ではなく義勇軍の兵士なのだった。 この歌では、初句「涙拭ひて」に作者の気持ちが込められている。先の鷗外とも通う同情があるが、相手は戦闘員であり、敵兵である。激戦地でこのような同情の心を持つのは(作者にとって自然なことだったかもしれないが)危険なことだ。さらに、単価として発表するには相当の勇気が必要だったろう。 一九三九年といえば、日本の国粋主義が著しく先鋭化した時代である。この歌を詠んだ渡辺はもとより、検閲で引っかかるかもしれないこの歌を「アララギ」に掲載した編集者、特に渡辺の師であった土屋文明の決断がここに見られる。 文明自身も、
ただの野も列車止まれば人間あり人間あれば必ず食ふものを売る 『韮青集』
と、通常の暮らしを営む人間の普遍性を詠った。敵兵は敵国の元首とは違う。国の違い、立場の違いで敵味方に分かれた無名の市民なのである。ここヒューマニズムの入る場所があり、歌が生まれる由縁があったのだ。
習近平、ウラジミール・プーチンありありと雲のごとく顔変はりたり 「かりん」二〇二二・六 米川千嘉子
こちらは、一年ほど前の歌。ロシアによるウクライナの侵略が高まっている今の作品である。習近平もプーチンも、すさまじい抗争を繰り返して、今の地位まで上り詰めた。彼らの若い頃の写真、また元首になったばかりの映像などは、テレビまでしばしば見る機会がある。彼らの「顔」は、長期政権を担い続けることで、以前よりもずっとふてぶてしくて険しいものとなった。この変化を米川は、「ありありと雲のごとくに」と表現した。 権力者が時を経て変貌するありさまは、小説や映画の格好のテーマである。米川は、リアルタイムでこれを観察し、なにごとかを感知し、「雲のごとくに」の一首を得た。 日露戦争の歌。第二次大戦へとつながる日中戦争の歌。これら戦争の歌を通じて私たちの知ることは、文芸家の心は、利害を超えて人間に寄り添うものであるということ。その心の産物としての歌が失われる時がもし来たら、その時にこそこの世界から「人間」がいなくなる時ではないかと思う。 (さかい・しゅういち)
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Last updated
September 27, 2024 04:38:04 PM
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