|
カテゴリ:抜き書き
「利根と通力とにはよるべからず」 日蓮も、釈尊同様、通力に依存することを厳しく戒めています。まず、日蓮の著作の中から通力ついて言及された部分を拾い出してみましょう。 まず、『題目弥陀名号勝劣事』には、
「通力ある者を信ぜば外道天魔を信ずべきか。或る外道は大海を吸干し、或る外道は恒河を十二年まで耳に湛えたり、第六天の魔王は三十二相を具足して仏心を現ず。阿難尊者、猶魔と仏とを弁えず。善導・法然が通力いみじしというとも、天魔外道には勝れず。其の上、仏の最後の戒めに、通を本とすべからずと見えたり」
とあります。ここには、鎌倉時代当時にも通力を強調する風潮があったことをうかがわせていますが、日蓮は、「仏の最後の禁しめ」として通力を根本としてはならないと述べています。 さらに日蓮は、『唱法華題目抄』において、
「通力をもて智者愚者をばしるべからさるか。唯仏の遺言の如く、一向に権教を弘めて実経をつゐに弘めざる人間は、権教に宿習ありて実経に入らざらん者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか、但し、法門をもて邪正をただすべし、利根と通力とにはよるべからず」
と述べ、「通力」を智者と愚者の判断材料としてはならないと戒めています。思想や、宗教の何がどう正しくて、何がどう間違っているのか——を判断するときは、あくまでも法門によって行うべきであるというのです。「利根」とか「通力」によってはならない。「超能力があるから、あの人はすごい。あの人の言うことだから、きっと正しいだろう」などということはできないということです。
「仏道に入つて理非を勘へ見るに、仏法の邪正は必ず得通自在にはよらず、是を以て仏は依法不依人と定め給へり」
という言葉も見られます。「依法不依人」とは、「法に依って人に依らざれ」という『涅槃経』の有名な言葉です。仏法の邪正は、通力を自在にこなすことができる「人」によるのではなく、普遍的な心理とも言うべき「法」に基づいて判断すべきであるということです。
【仏教に学ぶ対話の精神】植木雅俊著/中外日報社 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 4, 2024 06:40:16 AM
コメント(0) | コメントを書く
[抜き書き] カテゴリの最新記事
|
|