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カテゴリ:文化
生誕150年・小林一三 川崎市市民ミュージアム学芸員 鈴木 勇一郎 デパートや歌劇団まで幅広く 小林一三は、現在の阪急電鉄を作り上げた人物である。今から150年前の1873(明治6)年に山梨県韮崎の裕福な商家に生まれた小林は、東京に出て慶應義塾で学び、卒業後は三井銀行に入社した。 1906(明治39)年に退職し大阪に移住し、梅田から箕面や宝塚への路線を計画していた箕面有馬電気軌道(箕有)の設立を引き受け、開業にこぎつけた。この電鉄会社が、後に阪急電鉄へと発展していくようになったのである。 さて小林は、鉄道だけでなく、郊外住宅地の開発、宝塚新温泉やターミナルデパートの開業、宝塚歌劇の創始に至るまで、さまざまなビジネスを展開した人物として知られている。当時、東京や大阪といった大都市では、都心部にビジネスセンターが出現し、郊外へと市街地が広がり始めていた。人口が増え、都市が拡大する郊外に住んで都心部に通うという生活スタイルは、20世紀を通じたトレンドになっていくが、小林はこうした流れを巧みにつかみ、郊外を中心とする目指すべき都市ビジネスのモデルを確立したのである。 しかし、当初からこのようなモデルを〝〟として完成させていたわけではない。小林は後に。大阪梅田から箕面や宝塚に向かう箕有の路線を、沿線に何もない田舎電車だったと改装しているが、実際には、古くからの町場や箕面の滝といった名所が数多く点在していた。実は、通勤通学需要が未成熟な初期のころの電鉄は、名所を当てにした行楽輸送に重きを置いていた。初期の箕有でもこうした古いタイプの需要に依処していた。
鉄道沿線に宅地開発
小林は、こうした雰囲気を意識的に郊外住宅地に居住する新たな中間層に適合した、健全で衛生的な空間に作り替えていった。宝塚歌劇は1914(大正3)年に新温泉の余興として始めたものだが、花柳界を想わせる和楽器の使用を禁じるなど、健全なイメージ作りに努めた。 さらに西宮線や神戸線を建設し阪急電鉄へと脱皮していく過程で、沿線に住宅地を開発し、関西学院などの学校を誘致したりして、阪急電鉄の「山の手」イメージと結合した「阪神間モダニズム」を形づくっていったのである。 こうした小林の一連の新基軸は、彼が慶應義塾再学中に文学に熱中し、小説を執筆するなど、文化に対する造詣が深かったことも無縁ではないだろう。初期の宝塚歌劇では、自ら脚本も手掛けている。美術にも詳しく、彼の集めたコレクションをもとに、後に逸翁美術館が開館している。 いずれにせよ小林は、こうした試行錯誤を重ねつつ20世紀型都市ビジネスを確立し、目指すべき方向性を確立した。小林の確立した手法は、その直後の影響を受けた東急の五島慶太だけでなく、全国の電鉄会社の経営の在り方に、大きな影響を与えていった。 現在、地方だけでなく都市部も人口が減少し、20世紀とは状況が大きく様変わりしている。21世紀に入り20年以上たつが、私たちはめざすべき新たな都市モデルをまだ確立できないでいる。小林なら、こうした状況にどのような手法で取り組むのか、興味深いところだ。 (すずき・ゆういちろう)
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Last updated
November 4, 2024 05:28:56 AM
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