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カテゴリ:書籍
父の友人の経営する居酒屋の便所には、次のような標語が掲げられています。
「吐くまで飲むな もったいない」 長年に渡り、飲食をやってきた経験から来る、含蓄深い言葉です。 酒を飲むときの座右の銘なのですが、昨日は久しぶりに会った気のおけない面子だったからか、泡盛をロックでガンガンといったせいでやらかしてしまいました。 猛反省。 しかしあれですな、流石は泡盛、あれだけ飲んだのに2日酔いはなしですよ。 さて、予告したとおりに今日は読書日記。 冒頭にあるように、単なる技術史にとどまらず、M・マクルーハンのメディア論の出現以降の「わたしたちの社会や文化を変容させ、また、わたしたちの感覚や思考のあり方を変容させてきたという認識」にたって、本書『日用品の文化誌』は書かれている。 とはいえ、思想上のアレコレやこのような観点が成功しているか否かといったことよりも、無粋にネタとして楽しめる内容だった。 洗濯機や紙コップから始まり、スーツ、ミシン、寒暖計、果てはエレキギターに至るまで、様々な<モノ>が登場するのだから、面白くないわけがない。 例えば、洗濯機。 洗濯機の特許は1691年、イギリスで最初に取られた。 この家事の機械化として異例の早さから、洗濯が如何に重労働であったかが窺われる。 「必要は発明の母」というのはその通りで、大概の機械化がなされた今となっては、枝葉末節で、緊張感のないものしか発明されないのは、それを証明しているようなものである。 ただ、失笑を買うような珍妙な発明品の数々を生む心性自体は、別に考察が必要なのだが、機会があればやりたいと思う。 さて、18世紀末、産業革命とともに機械化の試みは本格化する。 この当初より、洗濯法には2つの方向性があった。 蒸気により汚れを取り去る方法と液体に浸した汚れた衣類や布を動力により動かす方法である。 この動力を如何に確保するかがポイントとなるのだが、その初期においては、内側のシリンダーをハンドルによって可動する仕組みになっているのが、興味深い。 また、労働の動作を模倣することで始まるため、洗濯板に布を押しつけて擦る機械が作られたのだが、これが非常に大掛かりなものになってしまったため、当初の目的であった労働の軽減化とは程遠いものになってしまったのも、面白い。 他にも絞り機などが登場するのだが、重要なのは「洗濯」を完成させるのに必要な洗剤の発明である。 洗剤とは何かの定義として「あらゆる洗剤は石鹸である。しかしすべての石鹸が洗剤というわけではない」を引用している。 なるほど、言いえて妙である。 また、洗剤こそが近代の洗濯法を決定しているという指摘は、洗濯の方式が洗濯機と合成洗剤を使う方式に一元化されたことで、衣服のデザイン・素材が、一方で洗濯機向けのものに集約され、他方ではドライクリーニングを代表とする家庭外の洗濯に振り分けられたことにつながっていく。 因みに、合成洗剤の起源についても触れられている。 ここまで書いて、眠くなったので、続きは明日。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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