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車筆太

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2006年09月15日
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カテゴリ:書籍
 金属アレルギーというわけではないのだけれど、どうもバンド部分の締め付けが苦手で、特に、夏場はその部分の肌が荒れる。単に、汗っかきだからだろうか。
 とまれ、そのため、普段は腕時計を着用していない。
 時間を知るという行為は携帯電話で代用している。だが、やはり腕時計と違って、持つのに不便だったりする。それに、カバンの中に入れておくと、即座に時刻を知ることができない。
 
 人間と腕時計の関係性について、永瀬唯は『腕時計の誕生』の冒頭で、「機能的な欠損を介助する義手や義足を超えた、人間の本来的な機能を拡張する、しかも身体に密着し、埋め込まれた最初のサイボーグ・デバイス」として捉えている。 
 そして、「身体器官補綴マシン」(=腕時計)が「人々の意識にのぼるファッション」となるまでの過程を、懐中時計から腕時計への進化を中心に据えて、遡及し検証していく。
 
 まずは、懐中時計から腕時計への転換期に登場したウオッチ・ブレスレットに注目する。ウオッチ・ブレスレットとリストウトッチ(近代的な腕時計)はいくつかの厳密な違いから区別することができる。
 なるほど、確かにここに挙げられた3つの要件を満たせば、懐中時計すら腕時計に改造することが可能だ。19世紀末には達成されたこの変化は、単なる装飾品から、近代的な機能を備えた実用品への変容だった。
 
 さて、ではなぜ懐中時計は腕時計になる必要があったのか。
 ここで、永瀬唯は戦争、カウボーイ、「新しい女性」に触れながら、消費のシンボルへ至る過程を描いていく。そこには戦争の変容があり、「未開の自然」という概念を消費するウィルダネス文化の誕生、近代的な野外スポーツの発生と拡がりなどが横たわっていた。
 そういった社会面を追いながらも、ひたすら写真の手首を見ながら史料を漁るという図像学的な方法論を用いながら、その時代の腕時計のあり方を探っていこうとする。 
 
 さらに、腕時計を独特の文化的なイメージとして享受しながら、愚昧な経済政策によって腕時計のない国となったソ連にもふれる。
 腕時計をするラスプーチンの容姿も目を引くが、ここでは「人間よ!時計になれ」と題された章の、アメリカで始まった労働合理化運動であるテーラー主義を極端に過激化して、人間が機械のように精密になることを目指したロボット主義(機械主義)から派生した、工場労働の合理化を目指す時間主義者が面白い(注1)。彼らは、自分たちの目印として、「馬鹿でかい時計」をはめていたという。
 人間と時計というと、マンガ界の奇書のひとつ徳南晴一郎『怪談 人間時計』を思い出す。徳南と時計主義の相反する対比はどうだろうか。どちらも狂っていて、時間が身体性を持つというエロス。それが全く反対へ向かっていく奇妙さ。ここにも何かがある。
 因みに、時間主義者の奇妙さは、合理主義を突き詰めていったことによるもので、池上俊一が『動物裁判』で提示した法廷に立たされるブタ、破門されるミミズ、モグラの安全通行権、ネズミへの退去命令などの諸事例と同一方向にある。

 ここまでにいくつかの腕時計の誕生や派生についての誤謬を解きほぐしていくのだが、実はどれも初めて聞いたものばかりだったので、「へぇ~」と唸っていただけだった。うむー。

 それでは、携帯電話の普及により、懐中時計の時代へ先祖返りしてしまった「時刻を知る」という行為は果たしてこれからどのような展開をみせていくのだろう。
 本書ではアポロ計画が終了した70年代以降の、消費の時代の大きなシンボルという腕時計への倒錯した実用神話が崩壊した後に訪れたいくつかの危機について触れて筆を擱いている。お手軽で高機能なクォーツ・システムの普及とスウォッチの誕生、そして携帯電話・PHSの普及である。
 要するに、廉価なクォーツ時計により高級品イメージと実用の品のイメージが崩壊した反面、前時代の技術である機械式腕時計(メカニカル・ウォッチ)に骨董品的、工芸品的価値がねじれた形で附随し、さらに、装飾品としての価値もスイス時計産業により再生された。
 因みに、自らが生み出したクォーツ技術がアジア製のクォーツ時計との競合に敗れた日本ではあるが、かつての機械式腕時計の伝統を復権させる動きもあるようだ。
 
 さて、懸案の携帯電話である。
 未来を予測することは大変難しいので、なんとなく当たり前のことを書いている気はするが、一応載せてみる。
 まず1つは、携帯電話が腕時計を駆逐することはない。
 モバイル・システムの普及・発展は、人間/機械のインターフェイスを変容することはあっても、携帯電話と腕時計は平行に発展していてる技術であって、融合はありえない。
 本書でも、腕時計型のPHSやヘッド・セット型の携帯電話(インカムの携帯電話は道交法の改正などで使用頻度は上がっているだろうが、常時着用ではない)の商品化が頓挫したことが書かれているけれど、何らかの必然性がない限り(洗濯機+乾燥機とか)、根本的に存在意義が違うものが単純に複合することで、新しい存在が生まれるのは考えづらい。
 
 もう1つは、「時刻を知る」ことが合理化されても、それは腕時計という存在そのものを脅かすものではない。
 科学技術の発達は利便性、コンパクト化(収納性)などから非合理なものを除外しようとするが、それと供に文化といった変化を拒むものも発達する。つまり、十分に腕時計が醸成された文化となるならば、腕時計がなくなることはないと。紙と電子ペーパーのように。
 
 結局のところ、やはり未来を予測するのは難しい。
 ただ、本書を読んで、過去に、そして未来に、思いを馳せてみるのも面白いのではないだろうか。
 
 腕時計の誕生動物裁判カフェテリア砂時計 1・3・5分計 (ステンレスフレーム)





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最終更新日  2006年09月16日 01時15分33秒
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