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カテゴリ:書籍
ゾンビと言えば、人肉を貪り、噛まれた人間もゾンビと化し、フラフラと(『ナイトメア・シティ』からはダッシュしたりしますが)歩いて襲いかかって来るイメージがありますが、ホラー好き、特にゾンビ好きはご存知のように、このイメージはジョージ・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』以降のものです。
『NOTLD』は、『invisible invaders』、『地球最後の男』、(本人曰くは)『恐怖の足跡』などから影響を受けています(注1)。 その後は、『NOTLD』、『エルゾンビ』シリーズ、H・G・ルイスの諸作品などの影響の下に盛り上がったゾンビ映画が、ホラー映画界に真紅の血糊と内臓と嘔吐感と恐怖をぶちまけて我々を喜ばせてくれているのは、周知のとおりです。 では、それ以前のゾンビはどんなものだったかと言えば、ブードゥー教の魔術により操られる「生きる屍」です。 十九世紀末から「黒い共和国」として知られたハイチを、噂と絵空事で粉飾された、暗く、不吉で、官能的で、淫らなものである直ぐ隣にある小さなアフリカとして、好奇心旺盛な大衆に提供し続けていました。 その草分けとも言えるのが、1886年の人肉入り「コンゴの豆シチュー」の話で有名なスペンサー・セントジョンの『黒い共和国』です。 さらに、1920年後半に出版された、ゾンビの使役を事実として書いたアメリカの冒険家ウィリアム・シーブルックの『THE MAGIC ISLAND』などにより、アメリカに空前のゾンビブームが起こります。これらの扇情的な出版物は著者の意図に関係なく、アメリカによる占領期間中(1915年~34年)発表され、政治的に大いに貢献したようです。 マルコポーロが『東方見聞録』で日本を「黄金の国・ジパング」と評したのが思い出されます。因みに、この書物には日本人は人を食べるとかヒドイことも書かれてます。 さて、ゾンビブームの興隆と折りしも『魔人ドラキュラ』『フランケンシュタイン』の登場で湧いていたホラー映画との融合により生まれたのが、世界初のゾンビ映画『ホワイト・ゾンビ(恐怖城)』です。 以後、ブードゥー=ゾンビの系譜は、『私はゾンビと歩いた』、『吸血ゾンビ』、『ゾンビの怒り』、『ブラック・デモンズ』、『ブードゥー/血に飢えた学園』などを経て、今に至ります。 こうしたブードゥー=ゾンビの系譜の中にウェス・クレイヴンの『ゾンビ伝説』があります。これは民族薬理学者・人類学者ウェイド・ディビスの『蛇と虹』を冒険活劇風に脚色したもので、今回読んだのはこの続編である『ゾンビ伝説』。 結論から言えば、ゾンビとは、宗教的な言い伝えによる迷信の存在ではなく、ある毒物によって仮死状態にされた人間が解毒剤により蘇えることによって、「蘇える死体」とされ、本人もゾンビとして生きるように思い込まされたものであるとする。 その秘薬(ゾンビパウダー)にはフグや毒蛙、ゾンビのキュウリと呼ばれる植物(毒性強)、果ては人間の頭蓋骨までが用いられますが、化学的に活性が認められるのは、フグや蝦蟇蛙が持っているテトロドトキシンなどの毒物なのだそうだ。 ここでフグ毒に関する日本やアジアの研究が参照される。フグを食するのだから当然ですが、日本とゾンビの意外な関係ですね。 また、解毒剤に用いられるものは、化学的に不活性なものか、薬理作用をもたらすには量が不充分なので、魔術的・宗教的な治療の儀式における象徴的な支えに過ぎず、術者自身の魔力こそが真の解毒剤ということのようだ。 これらに対しては、当然、異論もある。 しかし、こうしたエティックなレベルの分析ではなく、イーミック的な観点から理解する後半の方が興味深いです(注2)。 世界最初の黒人の独立国家、帝国主義の時代の鬼っ子に対する白人キリスト教社会の恐れや怯え、ゾンビの社会的素地、魔術的行為としてのゾンビ、ブードゥーの死、肉のゾンビや霊のゾンビといった信仰、秘密結社での規律・支配・制裁、法律で禁止されるゾンビの儀式。 こうした側面から見ると、映画でのブードゥー教の描かれ方はあまりにも邪教のイメージが強すぎますし、ハイチを神秘的に捉えすぎているきらいもあります。ウェス・クレイヴンなんだから普通に原作をなぞるはずはありませんが。ラストではスラップスティックにやってますし、やたらと飛び掛る所もらしいと言えばらしいです。そういうところを含めて、映画と見比べてみるものも面白いと思います。 ブードゥー教では、ゾンビに襲われることよりも、ゾンビになることを恐れます。つまり、身体的自由の喪失である奴隷状態、個性の喪失による自主性の犠牲に怯えているのです。 翻って、ロメロ以降のモダン・ゾンビが恐ろしいのは、社会的な素地や規律を踏まえながらも(いや、むしろそれが故に)、それをはみ出して、アナーキーに襲いかかってくるためだと言えそうです。 日常の亀裂から飛び出して人肉を貪るゾンビの方が、現代人にはしっくりくるのかもしれません。 注1: こうしたSFゾンビ映画の元祖は、史上最低として名を馳せてしまったエド・ウッドのかの『プラン9・フロム・アウタースペース』。 ブードゥー=ゾンビとモダン・ゾンビをつなぐSFゾンビは、重要な割には観る機会が少ないんですよね。輸入盤頼りになりますから。 ブードゥー=ゾンビの『吸血ゾンビ』もハマーらしい格式と猟奇の融合した作風で、土中から這い出るゾンビの印象が強く残る一本。特殊メイクもモダン・ゾンビに近いです。同じセットで同時期に撮られた同監督の『蛇女の脅怖』も必見。ラストに泣ける。 注:2 イーミックとエティックについては、ここを参照。 追記: ブードゥー=ゾンビは塩に弱いという通説を耳にするが、実際は少し言葉が足りないようだ。 「塩を与えられると、ゾンビの無関心は突如激しい怒りに変わり、その卑屈さは凶暴さに取って代わられ、最初の犠牲者は例外なく主人である。」魂の一部は、主人の死によって生者の世界に返ってくることも可能なのだ。と、本書にはある。 本書の中には深夜映画としていくつかの題名が挙がっている。 『白いゾンビ』『ゾンビの王』『ゾンビと道連れ』『ゾンビ、ブロードウェイに現る』『ゾンビの谷』『成層圏のゾンビ』。 あなたはいくつ分かりますか? 注記: 一応、ゾンビの話なんで、吸血鬼はあらかじめ除外してあります。「生ける死体」の先輩格としてそちらも合わせてやらなくてはいけないんでしょうけれど、煩雑で長文になるのは目に見えているので勘弁を。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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