汚れた鏡
能登の取材が続いている。地震災害に見舞われた能登だが、ぼくの知っているその人はいつも自然体で暮らしている。夢一輪館という能登町の蕎麦屋のおやじ、高市範幸さんだ。高市さんからライターや編集者が話を聞いている間、ひまなぼくは店内の片隅にある本棚の前に陣取った。飛騨からだったか、移築した古民家を店にしていて、その本棚だけがインテリアとして少し不釣り合いな気もしたが、並んでいる本は興味深いものばかりだった。さすが高市さんだ。 目を引いた中の一冊、『主バガバァーン クリシュナ』(バクティヴェータンタ文庫)というのを手に取って開いた。いきなり飛び込んできた前書きの言葉。 「私たちは物質エネルギーと接触し、それに執着しているために、本来の超越的意識が汚染されている。汚れた鏡が、きれいに物を映すことができないのと同じように」。 「何生涯もの間、私たちは一時的な物質と係わってきました。骨と肉の袋にすぎないこの体を、私たちは自分自身であると誤解しているのです。この一時的な状況が最終的なものであると考えているのです」。 取材中に眠くなって本棚の前でうつらうつらするカメラマンも珍しいが、こんな本を堂々と並べている蕎麦屋もそうはないかも知れない。クリシュナのことは何も知らないぼくだが、汚れた鏡、という言葉が妙に心に残ってしまった。はたして鏡としてのぼくは、いつもきれいに磨かれているだろうか。 The Lake Shikaribetu,Hokkaido きのう、この頃仕事がつまらないと言ったぼくに、ヨシエどんがさりげなく答えてくれた。「つまらないって思ってるときは、自分じゃない外の人ばかりを見ているものよね」。責めるでもなく、かと言って、アドバイスでもなく、自然な思いを伝えてくれる妻。ぼくにはほんとうに出来過ぎた女房だ。 周りの人や出来事ばかりを見て批判している。そんなぼくだとは自分でも気づいていたが、言われてみると、まったくその通りで返す言葉もなかった。つまりは、自分という鏡を磨かずにいるから、なにもかもが濁って見えるのかもしれない。それを意識してみると、今日の仕事の間はずいぶんと気分よくできたから不思議なものだ。 所沢の写真展「あめつちのしづかなる日」がいよいよ明日で終わる。これから深夜の高速道路に入り、搬出に向かう。写真家としてのこの生涯も、一時的な仮の姿なんだろう。骨と肉の袋にすぎないこの体だが、せっせと磨いてやろうじゃないか。かりそめの人生で味わえるほんとうの楽しみがあるとしたら、きっとそれくらいなものだ。 高市さんの蔵書には、こんなのもあった。 ひとりのしごとで ありながら ひとりの しごとでない しごと 寛次郎写真展「あめつちのしづかなる日」in 所沢