奇跡
2年前の冬、南インドの村にあるワンネス・ユニバーシティという施設に行った。カルキ・バガヴァンと呼ばれ慕われている聖者の下、それぞれが本当の自分に目覚めて行くプロセスを体験するコースがあって、「なんでも見てやろう」タイプのぼくも100人近くの人と共に参加したというわけだ。 数週間の滞在中のすべてが参加者それぞれに必要なプロセスには違いなかった。ある人は宇宙にまで飛び出しと言い、ある人は過去世を発見、またある人はついに悟ったと言った。数々の神秘的な体験があったようだ。ぼくはと言えば、あの世の祖母が一瞬現れてくれてそれがうれしかった。 だが、そんな神秘的な体験が一体なんだと言うのだろう。滞在も終盤、宿舎の屋上に上がって夜のひとときを過ごしていたぼくは、星と見間違えるほどのホタルの光を見て、「ああ、美しい。これこそ神秘だ」と思った。もしも永遠の世界があって、そこからこちらを見ている存在がいるとすれば、この見える世界でいう神秘などどれも日常茶飯事の当たり前のことではないのか。今はそんな想像をして楽しんでいるに過ぎないが、いずれ死んでみればわかることだろう。ここにないものをねだるのは人の性なのかも知れないと思ったりする。 見えない世界こそ永遠の確かなものだとしたら、この幻のようなはかない現世に生きていることこそ神秘だと感じてしまう。ホタルは本当に不思議に美しい。身体が光っている。池の鯉がゆったりと泳いでいる。水の中にいるのだ。とても不思議だ。両生類ときたらもっとすごい。水中から陸上へと平気で生態を変えている。 それじゃ、このぼくはどうなんだ。いまひとつ深い呼吸をしている。ハートが波打ち、手足があったかい。こころが何かを感じている。それらのすべてがとても神秘的で不思議な気がする。これこそ奇跡だと感じてしまう。 難病を克服したりすると、奇跡が起きたと言うかも知れない。だがその前に、ここに生まれてきたこと自体が奇跡なのかも知れない。立って一歩足を踏み出せる奇跡、目が見えるという奇跡、こころがあったかいという奇跡。どれもが決して当たり前ではない、神秘のベールに包まれた奇跡的な体験なのかも知れない。 生まれ落ちることが奇跡なら、死んでこの世を去って行くこともまた大いなる奇跡に違いない。その間のすべての時間だって奇跡になってしまう。 君とぼくが出会った奇跡、あなたとあなたがふれあう奇跡。 毎日のすべての一瞬は、実は二度と経験することがないという奇跡の連続だろう。写真を撮っていてわかったことがある。同じシーンにはもう二度と出会えない。 あの世の祖母などは、きっとこの世のすべての泣き笑いの奇跡を微笑んで見ているのかも知れないと思ったりする。今日という新しい一日もそんな奇跡のひとつなんだと想像してみた。