今日は、海外に住む に関しての、師匠に会ってきた
その師匠は、今度は、沖縄に、移り住むから、と、のたまった。話せば長くなるが、その師匠と、はじめてお会いしたのは、かれこれ、5年以上にもなる、昔である。こんど、タイに遊びに行くからというので、知り合いの唯一の国会議員秘書(当時は、私設秘書、今は、落ちたからただの人?)に、特別、タイで、大きく会社を、やっているという、その会社の、人を、紹介してもらった。そのように、はなっから、私のタイ行きは、怪しい、思惑があったようなたびであったが。何とか、お会いできた、その会社は、今はなくなっているが、バンコックの日本航空と同じビルに在った。Yさんという方で、タイ語ペラペラ、永く旅を、して、この会社に拾われたような話であった。忙しいそうなので、私も、其処に、長居しては、と思い、ちょうど、Yさんのところに遊びにきていた、Sさんに、誘われて、近くの、日本食の居酒屋さんに、ごいっしょしたのであった。どういうわけか、そこの、居酒屋さんの店主と、意気投合して、その後、其処を、タイ旅行のたびに、訪れるように、なっていました。そこは、三井銀行の裏手にあるお店で、結構、当時としては、流行っているように思いました。そして、その後、そのお店のマスターに、誘われて、今の師匠のお店に、行くようになったのである。そこは、パッポンと、タニアのちょうど中間にあって、そこには、シーロムでお店を、構えている、旅行代理店の方や、たぶん、もっといろんな人が、出入りしたと思う。月刊文芸春秋 去年の7月号?昭和天皇「謝罪詔勅草稿」の発見, 加藤恭子/著, 文芸春秋, のちに、1冊の本になっているその内容のことについて、話したら、ずっと、東京裁判についても、タイの置ける、米軍の反撃が、ソンクラーンからあったこと、そして、日本人が、捕虜になって、カンチャブリに、収容されていたということなど、初めて聞くことも多かった。結局、そんな話を、田舎でしても、返事返ってこないから、マスターが、特別なのかもしれませんが。アジアに出て、忌憚なく、話ができる人を、見つけたのでしょうか。帰りに、残りの本を、読んでいると、日本の、金型技術が、どんどん中国に盗まれていて、大田の、町工場の、技術者の、仕事がなくなったという話も、出ていた、そういえば、サリカコーヒーの、路地の置くのお店で、よく、話を、させてもらった方も、豊田市から来ているという、金型の技術者だったでしょうか。太平洋戦争についても、詳しかった。参考のホームページ ?門外漢の政治経済学…海運はアジア任せになるのか…http://www.randdmanagement.com/c_econom/ec_092.htmほとんど、アジアの、風に吹かれての内容では、なったかもしれませんが、ひろい 意味で、アジアに行って、外国で、がんばっている日本人に会うのも、いいかなって、思います。今回、私の場合は、向こうから来てもらったようなものですが。本当は、姪御さんの結婚式で、来られたそうですが。おまけ、マスターの話で、「中国に出て行った、企業も、(多分、中小企業のことだと思いますが、)100社出て行って、本当に、成功しているのは、ほんの2,3社だという、あとの、20%くらいが、何とかいられる、あとは、日本に、帰っている」だよと、そこで、伺ったり、いっしょに話した、10分の1も、書けませんが、言葉ができて、パタヤの、オープンバーで、いろんな、外人と話ができれば、また違う、タイも、あったでしょうが。私にとって、「日本人が、海外に住む方法」とか、「華僑といわれている、中国系タイ人って、どんな方法で、タイにきて、広がっていったのかとか、」少し興味がある問題で、それが、何とかクリアーできれば、海外で、旅ではなく、住みたいかな。それと、結構、曲りなりに(一応、5年以上同じ方と)、タイ人のお姉ちゃんと、付き合っていても、ある、物足りなさが、共通してあるだよなあ。さあ、これで、友人と、お会いする項は、一応完で、来週からは、日本で、パソコンやさんと、仕事というテーマで、動ければいいかなあと思います、最後まで読んでくれてありがとうございます。さいごに、恐れ多いことでは在りますが、昭和天皇の御かれましても、この、文章を、書かれた当時、宮内府長官だった田島道治 との御関係は、勝手に、一部を、引用させていただくと、安部能成 氏 によると、引用の引用で、はなはだ申し訳ありませんが、安部能成 『戦後の自叙伝』(新潮社 1959年)「田島君が、長官になって以来、我々、志賀直哉、小宮豊隆、和辻哲郎、私などが、天皇陛下、時には、皇后陛下を、前にして、くつろいでお話する機会が多くなった。纏(まと)まった話は、和辻君の国史や、文化史についてのものが多く、我々は、気楽に準備もなくお話するのだが、たまには、仲間のすっぱ抜きまで、申し上げて、陛下のお笑いをまねくこともあった。こういう集まりは、我々にも楽しい思い出になっているが、田島がやめてからは、この催しなくなった」と、語っている。心置きなく話せる、人を、得るということ、どんな人にでも、自分を、見出せることなんだろうなと、考えます。それと、月刊文芸春秋は、私の、好んで読む、雑誌です。今月号も、いま、枕もとにおいて、寝ようと。キーワードで言うと、話題の、西武の堤氏、読売の渡辺氏、そして、中国と、まあ、もっと別の人が、もっと深く書き込んであるでしょうから、その、古い文春には、司馬遼太郎についても、扱っている。よみがえれ、「坂の上の雲」実は、わたしは、読んでいないのである、幕末に比べると、明治のものは、ちょっと、言って、いまだに避けてきたが、自信を、失った日本人にとって、司馬遼の、小説は、元気が出る、自信がつく、本だったんだという。私も、ストーリーは、だいぶ忘れたが、坂本竜馬像は、「竜馬が行く」で、作られたんだと思う。昨年発行の、文春のなかでも、定価の710円以上の価値があったと思う。ほとんどは、ほかの人の受け売りみたいな文で、どうもでした。参考天皇の国民への「謝罪意志」はなぜ封印されたのか? 昭和天皇「謝罪詔勅草稿」の発見 ショウワテンノウシャザイショウチョクソウコウノハッケン 加藤 恭子 ■内容紹介■ 「朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」衝撃の文言を含む田島宮内府長官の詔勅草稿に、天皇の意志は反映されたか。『文藝春秋』で話題騒然 http://www.bunshun.co.jp/book_db/html/3/65/53/4163655301.shtml