明治維新は「維新」ではない
「いうなれば、3点差で負けていたのを、9回の裏ツーアウト後に放たれた一本の逆転サヨナラ満塁弾が試合を引っくり返したにも等しい結末であった」 孝明天皇と「一会桑」 著者:家近良樹 同書の本文、最後の文章を引用約260年続いた「徳川幕府」は、最後の最後まで、その権威・権力は絶大でありました。この強力幕藩体制にあって、いずれの藩も「倒幕」の気配・疑念を幕府に与えただけで、藩は潰される情況でした。1858年6月、幕府は天皇の勅許を得られないまま「日米修好通商条約」を調印しました。この非難の矛先は、徳川将軍ではなく、当時、大老であった井伊直弼に向けられています。1860年3月、「桜田門外の変」で大老は暗殺されます。1866年1月、坂本竜馬の斡旋により「武力倒幕を目指す薩長同盟」が成立したと「歴史」は言います。現在のところ、この同盟に関する資料は、一つだけです。それは、長州側の代表であった桂小五郎(後の木戸孝充)が、同盟の内容を確認する手紙を坂本竜馬に送りました。この手紙が、今日、残っている唯一つの資料です。「同盟」問題の箇所。 「兵士をも上国のうえ、橋会桑等も只今のごとき次第にて、もったいなくも朝廷を擁し奉 り、正義を抗み、周旋尽力の道をあひ遮り候ときは、つひに決戦におよび候他これ無しとの 事」これはどういうことかと言えば、在京薩藩指導者が兵隊を鹿児島から関西に連れてきたうえで、橋会桑(一会桑)の三者らが、いまのように朝廷を抱え込んで、薩摩藩が長州藩を許してやってほしいという働きかけを朝廷にするのを遮る時は戦う、決戦の外ないのだと,こう桂に宣告したということである。 同書から引用ここにある「一会桑」とは、一橋慶喜(後の徳川慶喜)・会津藩・桑名藩を指しています。当時、この三者が徳川幕府の閣僚として、朝廷側に近い政策を推進していました。この「同盟」は、薩摩藩が「長州藩の復権」を支持して手伝いますよ、そのことを朝廷に働きかけますよ、これを「一会桑」が邪魔するようであれば、この三者らと決戦する覚悟でいますよ、と長州側・桂に伝えただけです。薩摩藩と長州藩とが連合して、「一会桑」と戦うのであれば「藩同士の戦い」であり、充分に勝つ見込みがありました。「ところが、幕府本体に対する戦いは、ものすごく危険であった。(中略)幕府の有する広大な所領と多くの直臣(旗本・御家人)、それに徳川家と強く結びついていた譜代大名の集団、これらの存在を思い浮かべれば、このことはすぐにわかることである」 同書から引用1867年10月、徳川慶喜は政権を「天皇」に返上する「大政奉還」を申し出て、認められました。1867年12月7日、幕府制を廃止して、総裁・議定・参予の「三職」からなる中央政府発足の宣言、つまり「王政復古の大号令」となります。これは、徳川慶喜を排除した、薩摩・長州藩主導によるクーデタでした。1867年12月28日、「三職」側と慶喜との合意が成立し、慶喜が京都(朝廷)入りして、新政府の「議定」職に就任することが確定し、ここに「クーデタ」失敗が確定します。ここで、やっと、7日から28日の推移の中で、薩摩・長州藩は、「徳川本体を打倒」しなければならないと決意を固めました。薩摩藩の大久保は、イギリスなどが「旧幕府」を支援しないことを確認して、挑発行為に及びます。1867年12月25日、江戸で多発する浪人の暴行に制裁を加えようとする旧幕府が、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちする事件が発生します。これにより、旧幕府軍や会津藩・桑名藩などの藩兵が奮い立ち「薩摩打倒」を掲げました。1868年1月2日、「薩摩打倒」を目指し、旧幕府軍が京都への進軍を開始します。「この時、旧幕側(徳川慶喜)にとって、取り返しのつかない致命的なミスとなったのは、彼らがいつでも戦闘状態に入りうる臨戦態勢で行軍しなかったことであった」 同書から引用つまり、待ち構えていた薩摩藩との「鳥羽・伏見の戦い」で、旧幕府軍は大敗をして、ここで「逆転」し、名実ともに「徳川幕府は崩壊」しました。ここで巻頭の引用文に戻ります。☆人間の自由、平等、国民主権、思想の自由、法の前の平等などを掲げた「人権宣言」が「国民議会」で採択されました。時は1789年8月26日。場所はフランス。世に言う「フランス革命」。絶大なる権力を持っていた「絶対王制の専制政治を敷いてきたルイ王朝」は、これにより、事実上、崩壊しました。1867年10月、徳川幕府将軍徳川慶喜は「大政奉還」を宣言し、大政を天皇に奉還して「明治維新」への第一歩となりました。1917年、3月12日、ロシアでは「労働者や兵士によるソビェト」が組織され、「運動」の中で、ニコライ2世は、退位させられ、帝位を後続するものもないまま、ロマノフ王朝が崩壊しました。これら「革命」「維新」と呼ばれているものには「共通項」があります。「自由、平等」を掲げ、いわゆる「封建制」を打破して、強力な政治基盤を持っている「王朝」を崩壊させ、実質、政治的能力のない「組織」に政権を交代させることです。政治的能力がない「弱体政権」ですから、「資本の論理」に支えられた「傀儡政権」になるしかありません。つまり、「革命」「維新」そのものが「資本の論理」を掲げる「商人」によって画策されています。竜馬や大久保は「商人」の手先である「グラバー」などの走り使いに過ぎません。 ☆本来、「自由」「平等」などあり得ません。「商人」は言います。「我々の攻撃から、彼らの国家と人民を守る唯一の砦である貴族政治を、この『自由・平等』という言葉がぶち壊した」「我々が人民の心から神への信仰を奪ったとき、王冠の権威は地に堕ち溝に捨てられ、そこで、我々は誰はばかることなく、拾得物として、それを手に入れたのである」 ☆「日本はイギリス、アメリカ、ドイツの植民地。東経127度と144度、北緯31度と47度との間に位置す。旧イギリス帝国株式会社の支店…」 「モンブランの日本見聞記」新人物往来社刊のボヌタン著「明治ジャポン 1886 日本 文化の危機」から引用。ボヌタンはフランスの紀行文学者であり、1886年(明治19年)の日本を、「旧イギリス帝国株式会社の支店」と喝破しています。このとき、既に日本は「旧イギリス帝国株式会社」という「商人」に従属している「日本支店」。そして「フランス支店」、「ロシア支店」、更には「アメリカ支店」と続きます。「旧イギリス帝国株式会社」の本部は、今、現在、ロンドンのシティにあります。「明治維新」は、「維新」ではなく、日本国の「敗戦」であり、植民地となったのです。その後、1945年9月2日、降伏文書を連合国と調印して、武力による「敗戦」を迎えました。いまだ、日本は「支店」であり続け、占領され続けています。この状態を切り開く「政治家」の台頭が待たれます。