さみしさを抱きしめたら
男親はわたしを溺愛した男親の女親は男親を溺愛した彼らは自らのさみしさを自ら引き受けられなかったその底なしのさみしさを紛らすために彼を愛し私を愛し誰も愛せない赤い髪のキジムナー(*)は「さみしいよう」と言って、鎌を振り上げた死んでも、終わらないのだろうかそのさみしさはそのさみしさはいったいどこからやってくるんだろう男親は病弱で痩せてチビで頼りなかった頃の私しか見ていない彼の眼には成長したわたしはなかなか映らないいつもなんだって先回りしてやってくれる私はただただ口を開けて待ち続けている男親の女親は嘘をつき続けるそれは彼女にとって真実で彼女がさみしくないようにするために必要な真実なのだった私の女親もその三人の子供たちもその「真実」に翻弄され怒り泣き恨んだりした「溺愛とは、さみしさを紛らすために愛することです」そんなマドモアゼル・愛先生の言葉がズバっと身体に斬り込んでくるようだったのでこんなことを考えている血統とはおそろしいものでわたしも溺れる方法を彼らから学んだようだったからわたしたちはみな餓鬼なのださみしさや疲れたこころや人恋しさを紛らすためにまたあなたの好意を利用してしまったのではないかとずっと考えていますかつて半畳分の屏風のなかで一週間ひとり自立というテーマと向かい合いましたこの得体のしれないさみしさをどっしりと自分で引き受けることそれは自立ということと、深い関係があるようですなぜそんなにさみしいだろうなにがそんなにさみしくさせるのだろうなぜだろうと思ってみるそのさみしさを何かで紛らすことは本当はできないことで紛らしたさみしさはどんどん暗い口を広げていくばかり目に入れても痛くないと愛されてももうそこに私への愛はないのだと空々しく感じそしてまた同じことを繰り返す自分にもあるのはさみしさだけなのかもしれないと問答をする(*)映画「アコークロー」