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2002年、アメリカ=オランダ=フランス、ラリー・クラーク/エド・ラックマン監督。 **************** カリフォルニア州、スケボーのメッカとして有名な小さな街・ヴァイセリア。どの家庭も表面的には明るく平和な雰囲気に包まれているが、 家の扉を開けて一歩足を踏み入れるとそこには狂気の世界が待ち受けている。 ・ケン・パーク:近所の公園へスケボーに出かけ、持ってきたビデオカメラをセットし、薄ら笑いを浮かべながら自分の頭を銃で吹き飛ばしてしまう。 ・ショーン:小さな弟に馬乗りになって、自分を褒め称える言葉を言えばどと強要する。その後、ガールフレンドの家に行き、母親と関係を持つ。 ・クロード:マッチョな父親から執拗に責められたうえ、性的関係を迫られて彼は家を出る。 ・ピーチーズ:ボーイフレンドとのベッド・インを狂信的な父親に見つかり、 折檻される。 ・テート:一緒に暮らす退屈な祖父母への苛立ちをエスカレートさせ、 ある日、 抑え切れなくなる…。 ・再びケン・パーク:ガールフレンドから妊娠を告げられ、冒頭に自殺シーンへと回帰する。 **************** まあ、とにかく無茶苦茶な内容の映画です。主要な登場人物は、子どもも大人もどこか狂っています。 子どもたちによる大胆なセックス・シーンがとりわけ問題視され、多くの欧米諸国で上映が禁止されたり保留されたりしました。 しかし、日本ではR指定によりすんなり許可されています。これを、日本社会の寛容さの現れとみるのか、それとも、もともと日本は道徳規範が緩い社会とするのか。双方はコインの裏表のようなものですが。 この狂気の世界によって何を描いているかというと、「家庭崩壊」ですね。いやむしろ「家庭破壊」といったほうが正確でしょう。 「崩壊」という場合は、結果を受動的に表現するというニュアンスが強いですが、「破壊」の場合は、むしろ積極的にそれを押しすすめるという意味合いが強い。 両監督は「ここで描かれている家庭の状況は事実なのであって、それを見つめるべきだ」という趣旨の発言をしていますが、私の眼からすると「確かにここで描かれている状況は事実かもしれないが、複雑多岐な事象のなかからこういう事実を抜き出してきた両監督の思想背景のほうが興味深い」ということになります。つまり、両監督はいかにも客観的な視線から家庭の「崩壊」の様を描いているようにみえますが、実は深層には家庭を「破壊」する意図または願望があるのではないのか、ということですね。 映画の殺伐とした事実としてのリアリズムは、一方で生のリアリティを欠いており、幻想性(エロス性)というものがまったく感じられません。 人間の尊厳どころか、命さえ軽々しく扱われます。つまり徹底的にニヒルなのです。 そのニヒルがどこに向けられているのかというと、もちろん家庭ですが、それを衝撃的に象徴するのが、テートの場合です。 テートは祖父母に育てられていたのですが、この祖父母は仲睦まじい夫婦で、作品中唯一”マトモ”です。しかし、テートは祖父の些細なミスや祖母の世話焼きが気に入らず、二人を殺害しています。殺害される直前の祖母の言葉が「愛しているわ、テート」です。それでもテートは、なんら躊躇することなく祖母の胸にナイフを突き刺したのでした。こうして、唯一”マトモ”な家庭さえも、それをあざ笑うかのように破壊してしまうわけです。 ちなみに、この映画では、「赤」が印象的に使われていますが、「赤」は狂気に通じます。しかし、この作品の「赤」は彩度が抑えられたどんよりしたものが主体で、興奮するというより気分が滅入ってくる「赤」で、陰鬱な雰囲気によくマッチしています。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ (家庭というものの一切の破壊という)ニヒルを徹底した後に、何が見えてくるのか。 所有、支配、暴力、闘争、ドラッグ、そしてとりわけセックスといったむき出しの(動物的)欲求です。 しかも、ニヒルを徹底した後の、つまりロマンやエロスのないセックスですから、かなり”倒錯”したものになっています。所謂”マトモ”なセックスは一切なく、近親相姦、幼児愛、ゲイ、3P、SMと何でもござれです。 つまり、家庭の破壊は、道徳や規範の破壊を意味しているわけです。 破壊された家庭を飛び出した子どもたちは、自分たちの将来に何を見たのか。 最終シーン近く、ショーン、クロード、ピーチーズは3Pを行いながら「夢」について語りあいます。象徴的なのがクロードが語る「夢」で、セックスだけが存在するユートピアを築くというもの。しかし、そのユートピアなるものは、3Pにふける今の自分たちの世界に他なりません。つまり、「夢」を語りながら、実は、もはや夢を持てない、と白状しているに等しいわけです。 どうしようもない閉塞感が漂いますね。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ こうしてみると、「両監督の思想背景」として見えてくるものは、近代または資本主義社会に絶望して、反社会的心情のみが研ぎ澄まされたポストモダン(ポスト構造主義)的風景というものではないでしょうか。つまり、家庭もなく(反近代)、規律もなく(反道徳)、男も女もなく(ジェンダーフリー)、もちろんマルクス主義的世界でもなく(ユートピアの否定)、そこにあるのは荒涼とした世界における乾いたダイナミズム(身体的欲求の充足という運動)でしかありません。 そのような世界に人間は価値を見出しえるのかどうか、耐えられるのかどうか・・・・両監督はそう問うているようでもあります。そして、ちょっとそら恐ろしくなってくるのは、両監督は、そういう世界をかなり肯定的にみているのではないか、ということです。 ところで、この映画の題名は『ケン・パーク』ですが、ケン・パークという少年は冒頭と最終の短いシーンに登場するのみです。 しかし、最終シーンの意味することは重要です。 ケンは、ガール・フレンドから妊娠を告白され、中絶を拒否され、その直後に自殺します。つまり、親(大人)になることを拒否したのです。 親(大人)になって家庭を築くくらいなら、死んだほうがましだ、というわけです。かようなまでに徹底的に家庭を中心とする近代型の社会を拒否・否定しているわけです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
拝見しました。まだ見ていないのですが、とても気になっている作品です。
近代の家族制度が崩壊したのか、近代そのものが崩壊しているから家族も崩壊したのか、その辺がきになるので、ぜひみてみたいです。 最近生活に追われてしそうな世界から遠ざかっているももちきです。ばかになったなぁ・・・ (May 28, 2005 11:47:51 AM)
<<ももにゃきさん>>
>近代の家族制度が崩壊したのか、近代そのものが崩壊しているから家族も崩壊したのか、その辺がきになるので、ぜひみてみたいです。 家族というのは人間関係の価値や意味の源泉ですから、これをなくすことは危険であり不可能です。かつて共産主義やヒッピーたちは、家族の枠を超えた「コミュニティ」というものを構想しましたが、結局は何も生み出さすことができずに消滅しました。この映画でも、そういった「コミュティ」の一種が”夢”として語られていますが、その内実については上述したとおりです。 ただ、近代的な家族の形態が危機に瀕しているという状況・・・・その一つの表れが「少子化」だと思いますが・・・・は真摯に見つめる必要がありますね。 (May 29, 2005 05:16:57 PM)
<<μ ミューさん>>
>わたしにも、 > >>家庭を「破壊」する意図または願望 > >無きにしもあらず・・だな(苦笑) ----- でも、たぶん、より良き家庭・家族を求めてのことでしょうし、そうでなくても現実に失望してのことだと思います。つまり、根底では”ほんとう”の家庭・家族を望んでいるということですね。 この映画ではむしろ、”ほんとう”の家庭・家族を否定し破壊を肯定するというニュアンスが強いです。 (Jun 5, 2005 10:09:55 AM) |
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