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1994年、イギリス=インド、シェーカル・カプール監督。
80年代初頭インドで、女盗賊(義賊)として群盗を引き連れて荒し回ったプーラン・デヴィという女性が送った波乱万丈の人生を映画化したものです。 ***************** プーランは、1958年インド北部(ウッタルプラデシュ州南部ゴルハカルプワ村)で下層カースト(シュードラ:「マッラ」)の貧困農家の娘として生を受けました。この時点で彼女には、カースト制度と「女性」という二つの差別がついて回ることになりました。 彼女は、11歳で30過ぎの男と訳が分からないうちに結婚します(ちなみに、インドでは法律上は18歳未満では結婚できないことになっていますが)。夫による虐待に耐えきれず、数年後には飛び出して生家に戻っています。 出戻りの女性はその辺りではほとんど人間扱いされず、彼女は村人たち(とりわけ上位カーストたち)から村八分、白昼のレイプ、盗みの濡れ衣、取調べ警官による性的暴行など、ありとあらゆる嫌がらせや虐待を受けます。 当時ダコイットという盗賊がインドを荒し回っていたのですが、この集団は富める者から奪って貧しい者に分け与えるというようなことをしていたそうで、義賊を自称していました。彼女は20歳の頃、このダコイットに誘拐され、棟梁のオンナとして慰みものになります。 ダコイットにはヴィクラムという優しい青年がおり、彼はプーランと恋をするようになります。やがて、ヴィクラムは、プーランへの虐待をくり返す棟梁を銃殺し、ダコイットを率い義賊として活躍するようになります。そして、プーランはヴィクラムと二度目の結婚をします(21歳)。 しかし、ヴィクラムは対立する盗賊―――頭が上位カースト・クシャトリヤ(王侯・武士)に属する「タクール」(地主)の一派―――によって殺害され、プーランはビーマイ村に拉致され集団レイプを受けたうえ、奴隷扱いされます。 脱出したプーランは、夫の意思を継いで義賊として暴れ回り、ビーマイ村でかつて集団レイプに関わった「タクール」の男性22人を復讐として射殺し(1981年)―――ただし、プーラン自身は直接関与を否定しています―――、この事件でメディアはプーランを「美人盗賊」や「カリ(悪を退治するヒンズー女神)の生まれ変わり」などと書き立て、彼女は一躍有名になりました。 事態を重視した警察当局はプーラン逮捕に本腰を入れはじめ、彼女は多くの仲間を失い徐々に追い詰められていきます。インディラ・ガンジーが首相をつとめていた1983年、プーランは司法取引に応じて投降します(ちなみに、ガンジー首相はこの直後84年に暗殺されています)。 ***************** 映画はここまでですが、後日談があります。 1994年2月(映画が公開された年ですが)に出所したプーランは、1996年にインド下院選挙に出馬し当選を果たし、カーストや性による差別の撲滅を目指し政治家として活動を始めました。その頃、三度目の結婚をしています。 ほぼ同時期に自叙伝(『プーラン・デヴィの真実』1997年)を出版しています。この本は、(文盲だった)彼女自身の言葉をテープレコーダに録音して、そのまま文章に起こすと2千ページにも及ぶものを二人の作家が刈り込みをし、原稿を本人に読み聞かせ、確認を取ってから本にしたとのことです。えらい気の使いようですが、実は、映画『女盗賊プーラン』は、インド本土では、プーラン本人より「伝記」を大幅に脚色されているとして起訴され、インド政府からは上映禁止をくらっていたのでした。 そうかと思うと、こういう話しもあります。 映画では、プーランは好感を誘う存在(義賊)として描かれており、村を襲撃しても貧困層の安全は保証し、金持ちから奪った戦利品を貧しい者に分け与えた英雄であって、彼女が降伏セレモニーの臨んだ時には群衆が称賛の声を上げるシーンがあります。 しかし、地元の住民によると、例えば、ビーマイの隣村で育った新聞記者スリードハル・チャウハン氏(44)は「我々はどんなにプーランを恐れたことか。彼女を英雄視するメディアには怒りを感じた」と語っており、降伏セレモニーを見た大学教授ビシャセル・シン氏(57)によると、人々は「盗賊をひと目みようと集まっただけ」で、プーランをたたえる者はいなかった、ということです(「読売新聞」 http://www.yomiuri.co.jp/tabi/world/abroad/20041116sc22.htm)。 2001年7月、プーランはニューデリーで暗殺されました。享年43歳。 地元警察は犯行グループの7人を逮捕しましたが、主犯格の男は「ビーマイ村事件の仕返しだった」と供述しており、復讐が復讐を呼んだともいえそうです。 本の印税などもあって、プーランは210万ドル(2億5600万円)の財産を残したそうですが、これを巡ってまた悶着が生じています。 生前、不仲で別居中だった3番目の夫が、「妻の夢を果たすため政界に入る」と宣言し、相続の正当性を主張する一方で、プーランの家族(実妹ら)は「財産目当てに結婚したペテン師」と彼を非難し、射殺事件への関与さえ示唆しています。 さらには、一番目の夫までもが「離婚手続きを経ておらず、正式な夫は自分だ」と名乗りを上げ、「遺産を相続し、貧困者のための基金を設立する」と裁判に訴える構えをみせているということです。 なんか「貧者同士の争い」をみる思いがしますね。 以上は2001年現在の話(報道)です。 ◇ ◇ ◇ ◇ 近年、インドの経済発展は、IT産業に代表されて目覚ましいものがあります。しかし、カーストに基づく差別は根強いものがあり、法律でいくら規制しようとも社会構造としてしっかりビルトインされているようです。プーランがあのおぞましい虐待を”当然のごとく”受けた時代というのは、ほんの2、30年前であって、とりわけインド人口の7割が暮らす農村部では依然としてカースト差別が根強く、少女婚など女性虐待も後を絶たないとのことです。 ブッダが戦いを挑んだ相手は、このカースト制度だったのですが、結局は仏教は殆ど駆逐されてしまいました。現在では、下位カースト者が仏教を選択することも多いそうです。刑務所で多くのことを学んだプーランにしても、自分よりももっと下に続くカーストがいることを知り、ヒンドゥから反ヒンドゥを掲げる仏教に改宗したのでした。 経済発展を控えたインドでは、国際化という波のなか、この問題は今後ますます重要視されることになるでしょうね。 ◇ ◇ ◇ ◇ この映画自体ですが、映像はかなり粗いつくりとなっていますが、それがかえって埃や砂や岩だらけの風土にマッチしているようで、やけに生々しい印象です。母親譲りといわれるプーランの荒々しい気性に、よくマッチしていますね。 景色は綺麗で、それがかえってプーランの境遇の悲惨さを際立たせています。プーラン率いる盗賊たちが、山肌を縫って警察から逃亡するシーンは、なかなか良かったです。 シェーカル・カプール監督はこの映画で認められて、4年後には『エリザベス』という作品で、大英帝国の女王伝記映画をインド人が監督するという快挙を成し遂げています。ケイト・ブランシェットが主役を演じていることもあり、『エリザベス』も好きな作品のひとつです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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