ジャカルタでの休暇
9月27日から10月2日までジャカルタに滞在、3日午後帰宅した。成田発が4時間も遅れるというハプニングがあったが無事1週間の旅が終了した。今回は娘夫妻が、両家両親と孫2人を会わせるために設定してくれた招待旅行で、好意に甘えたというわけである。子供が3歳と2歳なので、ジャカルタ郊外のミニ・インドネシア公園を訪ねた以外は概ね中心部での孫たちとの食べ歩き・買物三昧と、マンション構内での遊びと散策の滞在であった。インドネシアは親日的かつ国民性も良いのであるが、すり、引ったくりが横行しているということで、娘一家の普段の生活も、我々旅行者も半軟禁状態であった。つまり、移動・外出はすべて個人で雇った運転手つきの車、買い物はガードされたいわゆる豪華モール、デパート、そして日本食スーパーで、一般庶民の生活圏に入ってゆく機会はなかった。因みに、娘一家が住むマンション構内には28階建てが5棟、複数の出入り口・各棟玄関等々にはガードマンだけでも凡そ30名が常駐、孫たちの遊び場もマンション構内の室内外プールや室内外施設で、ほかにフィットネスクラブ、テニス・バスケットコート、ゴルフ・ショートコース、スカッシュ、ジョギングコース、コンビニ、レストラン、美容室等々が揃い、まるで[現代の居留地]にこもっている様な生活であった。あと考えさせられたのは、すさまじい貧富の格差である。我々が泊まったのは40階建てのホテルであったが、そういう超高層ビルや高級モールが林立しているかと思えば、片やバラックの住居や店舗が散在し、たむろする大勢の物乞いと、とにかく中間層・中級品が不在の世界であった。ほかにも人間差別がすごい。娘一家の住まいは日本ではちょっと手の届かない150平方メートルという広さであるが、それでもここのマンションでは最小面積という。エレベーターと玄関が直結しているが、一方使用人は別玄関からの出入りで、メイド部屋はなんとここだけ冷房なしの2畳に小さなトイレ兼水シャワー、オランダの統治時代を思い起こす。興味深かったのは、30日の日の入りまでのラマダンに遭遇したことである。毎日、昼間は食事も水もなしであるから、ちょっと付いていけそうにない。日没とともに延延とモスクから拡声器を通じてコーランを朗唱する声が聞こえる。日没後しばし各家々から花火が打ち上げられるのを、25階の居室から見ているのはなかなか幻想的である。