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カテゴリ:歴史その他
歴史がしばしば繰り返されるように見えることは、昔から多くの人が指摘してきたことだし、また実際に多くの人が感じているところだろう。カエサルはアレクサンダーの再来であり、キリストはモーゼの再来ではなかったのか。 過去は多くの人によって教訓として参照され、歴史上の偉大な人物は変革を志す人々によって目指すべき目標、模範として利用される。キリストの言行は、旧約聖書に書かれた多くの預言者の言葉を強く意識したものであったし、水戸学や平田国学の影響を受けた幕末の志士たちが求めた天皇親政という「王政復古」もまた「歴史の繰り返し」であったといえる。 そして、フランス革命の歴史を深く学んでいたロシアの革命家たちは、逆にテロルとテルミドールという歴史の亡霊に怯えていたのではなかっただろうか。実際、スターリンは軍事人民委員として赤軍を創設したトロツキーを独裁者ナポレオンになぞらえることで、レーニンを失い歴史の教訓に怯える多くのボルシェビキの支持を集めて、彼を追い落とした。しかし、実際にはスターリンこそがテルミドールを再現してみせたのだ。 たとえば、現在、安倍内閣のもとで進められている教育基本法の改正から 「憲法改正」 を目指した動きは、いわゆる進歩的知識人によって戦後すぐ1950年代の再軍備から始まったいわゆる 「逆コース」 と地続きのものと捉えられ、その完成を目指したものであるとみなされている。 だとすると、現在の動きは戦前への回帰を目指したもの、いわゆる軍国主義の復活を目論むものであるということになるのだろうか。だが、そのような結論はとうてい真面目なものとは思えない。それよりも、現在の動きはむしろ 「逆コース」 の半世紀を隔てた再来であり、「逆コース」 という 「歴史の繰り返し」 であると捉えた方が正しいのではないか。 実際、マッカーサーから押し付けられた憲法に代わる 「自主憲法」 の制定を目指した戦後の 「逆コース」 は、その中心人物であった岸信介が60年安保改定を成し遂げて退陣し、政治の主流が 「所得倍増政策」 を掲げた池田勇人から岸自身の実弟である佐藤栄作、そして田中角栄へと引き継がれたときに、いったん頓挫したのではなかったのか。 たしかに自衛隊は国民の意識の中に定着し、「解釈改憲」 と呼ばれる強引で無理な憲法解釈状況が進行していた。しかし、その一方で平和主義を掲げた戦後憲法もまた自衛隊の野放図な拡張を懸念する国民の意識の中に、その歯止めとして定着したかに思われた。 戦前をはるかに上回る復興を実現し、物が溢れる消費文化に酔いしれた時代には、戦前回帰を思わせるような 「自主憲法制定論」 は政治家たちのカビの生えた頭の中にしか存在しない、時代錯誤な迷妄のように思われた。闇将軍と呼ばれた田中角栄とその継承者たちによる支配が続いた時代には、自民党結成時の綱領に書かれた 「自主憲法制定」 という言葉は単なる看板=死文、もはや換金されることのない空手形と化していたのではなかったのだろうか。 「歴史は二度繰り返す、ただし一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」 というヘーゲルの言葉を引用したあとで、マルクスは次のように語っている。 人間は自分自身の歴史を作る。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとでではなく、すぐ目の前にある、与えられ持ち越されてきた環境のもとで作るのである。死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生けるものの頭脳を押さえつけている。 またそれだから、人間が一見懸命になって自己を変革し、現状を覆し、いまだかつてあらざりしものを作り出そうとしているかに見えるとき、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間はおのれの用をさせようとしてこわごわと過去の亡霊どもを呼びいだし、この亡霊どもから名前とスローガンと衣装を借り、この由緒ある扮装と借り物の台詞で世界史の新しい場面を演じようとするのである。 ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 しかし、歴史がまったく同じように再現されることはありえない。なぜなら、人間を取り巻く様々な状況が、すでに過去とは異なっているからだ。当たり前のことだが、ルターが生きていた時代はキリストが生きていたローマ時代のパレスチナとは異なるし、明治もまた奈良・平安初期の天皇親政の時代とはまったく異なった時代であった。 したがって、当初歴史の倉庫から引っ張り出されてきた古びた衣装は、じきに役立たずの古着としてかなぐり捨てられ、新しい衣装に取り替えられる。ちょうど、明治初期に復活した太政官、神祇官という制度が、わずか十数年のうちに国会と内閣という仕組みに置き換えられたように。 二度目の繰り返された歴史では、俳優の肉体と衣装がまったくそぐわないために、それは喜劇にしかならない。しかし、あくまでも古びた衣装に固執する者は、やがて歴史から裏切られることになる。藤村の小説 「夜明け前」 の平田国学に心酔し討幕運動に奔走した主人公、青山半蔵を襲った運命は、まさにそのようなものであり、彼らにとっては二度目に繰り返された歴史という喜劇は、同時にそのまま悲劇でもある。 谷川雁は「『城下の人』覚書」(「工作者宣言」所収)の中で、熊本隊の一員として西南戦争に参加した母方の祖父について述べているが、歴史の隅にはそのような人々が大勢うずもれている。であれば、現在の政治的動向を単なる 「反動」 と捉えることは、きわめて不十分であり、大きく間違う危険性を伴っているように思われる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.12.27 23:30:51
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