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カテゴリ:歴史その他

鳥羽院のおんとき 北面に召し使はれし人はべりき。左兵衛尉藤原義清(のりきよ)、出家ののちは西行法師といふ。かの先祖は天児屋根命(あまつこやねのみこと)、十六代の後胤、鎮守府の将軍秀郷に九代の末孫、右衛門大夫秀清には孫、康清には一男なり。

 上の引用は、西行の死から五十年ほどのち、つまり鎌倉時代の中頃に成立したと推定されている 『西行物語』 の冒頭。ただし、俗名は憲清と書かれることもある。なお、藤原秀郷とはかの将門を討ち取った人物で、俵藤太の名前でも知られ、琵琶湖の近くで巨大ムカデを退治したとか、栃木のほうでは百目鬼という妖怪を退治したなんて話もある。

 ただし、秀郷についてのそのような伝説が生まれたのは、西行が生きた時代よりもあとらしい。たとえば、室町に成立した 『俵藤太物語』 では、将門と秀郷の壮絶な死闘が語られており、それによれば、将門はつねに六体の分身をしたがえていて、七人いるように見えるが、分身には影がない、影のあるのは本体だけだとか、全身鉄でできているが、こめかみが弱点で、秀郷はそこを射抜いて倒したとか。

 実在の人物からこれだけシュールな伝説が生じるには、さすがにかなりの時間を要するだろう。とはいえ、『今昔物語』 にもあるように、平安時代というのは鬼や妖怪、怨霊などの超自然的威力が跳梁跋扈していた時代である。であるから、ある人物に対する伝説化の欲求がありさえすれば、そこに摩訶不思議なる伝説を生じさせる素地は、いつでもあったということになる。

 そのような武家の名門に生まれた西行が、二十三歳で突然出家した理由は、はっきりしない。親しかった友人が急死したからとか、高貴な年上の女性に振られたからとか、諸説あるようだが、どれもいささかできすぎている。むしろ、権謀術数うずまく宮中に嫌気がさしたというのが、平凡だがいちばんありそうな気がする。

 平安に限らず、その前の奈良にしても、宮廷内の権力闘争というものはすさまじい。様々な陰謀や政敵へのデマ中傷はもちろんのこと、僧侶や祈祷師を呼んでの呪詛合戦も珍しくはなかった。なにしろ、事件や事故が相次ぐと、誰々の呪いだ、祟りだといった噂がたちまち都中を駆け巡るといった時代なのである。雅な王朝文化なんてのは、しょせんただの表の顔にすぎない。

 それはなにも、非合理的な迷信とかのせいだけではない。同様のことは、権力が少数の閉じた集団に占有されている世界では、いつでも起こりうる。現代だって例外ではないのは、スターリンのような独裁者による政治の末路を見ればよく分かる。そういう世界では、自分にもっとも近い人間こそが、もっとも用心し警戒しなければならぬ相手なのだ。

 いわゆる浄土信仰の流行は、末法思想の広がりに伴うものだが、藤原氏のような上級貴族にとっては、それは現世の栄華を来世でも謳歌したいという、すこぶる利己的な欲求の表れでもあった。頼通が建てた壮麗な平等院鳳凰堂は、そのことをよく表している。道長は 「この世をばわがよとぞ思う」 と詠ったが、それも生きていればの話、死んでしまってはしょうがない。

 厭離穢土・欣求浄土とは、浄土信仰を一言で表したスローガンのようなものだが、信仰がしだいに下級武士や庶民へと広がるにつれて、重点はしだいに 「欣求浄土」 から 「厭離穢土」 のほうへと移動する。そこでは、阿弥陀経に謳われたような、迦陵頻伽が空に舞い、金銀財宝ざあくざくといった極楽浄土の華やかさなどは、もはや問題ではない。

 ただ、戦乱や天変地異に明け暮れ、人の命など無に等しい現世をいとわしいと感じる心だけが、浄土を求める根拠となる。実際、そういった人々は、なにもこの世ではとうてい味わえぬ豪奢な暮らしがしたいというような理由で、浄土を求めたわけではないだろう。

 しかし、そのような悲嘆が 「とく死なばや」 といった死の理念化へとひた走るなら、それは洋の東西を問わず、動乱期にはよくある宗教的急進化の一例にすぎない。そこへいたる心情がいかに純粋であろうと、そのような現世そのものを否定する思想は倒錯でしかない。そのような思想が無視できぬ広がりを持ったとすれば、それは時代のせいでしかあるまい。

 『西行物語』 では、西行は泣いてすがる4歳の娘を縁側から蹴落とし、心を鬼にして出家したなどと、無茶苦茶なことが書かれているが、これではただのよくできた抹香臭い 「聖人伝」 でしかない。実際の西行は、すでにきな臭くなっていた時代の中、奥州藤原氏のもとを訪れたり、その途中で鎌倉の頼朝に会ったりと、世の中の動きにもなかなか敏感な様を見せている。

 『吾妻鏡』 によれば、頼朝との会見を終えた西行は、土産にもらった銀の猫を屋敷の外で遊んでいた子供に与えて立ち去ったという。この話が本当かどうかはともかく、そういったことからうかがえるのは、権力などに関心はなくとも、現世そのもの、言い換えるなら、現世の中で生きる人間そのものは否定しないという思想のありようのように思える。


  願はくは 花の下にて 春死なん、そのきさらぎの 望月のころ

 この歌は、西行が50歳のころに詠んだものらしい。表現こそ直截だが、どこかにのんびりした感が漂っている。気がつくと、もう気の早い桜があちこちで花を咲かせている。






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Last updated  2010.03.21 13:45:27
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