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カテゴリ:啓蒙ということ

 前回、啓蒙とは、「目覚めた少数者である知識人」 「無知蒙昧な大衆」 という図式を前提にしていると書いた。言い換えると、啓蒙はいまだ国民全般への教育が行き届かない時代に必要とされるということだ。

 したがって、問題はこうなる。

 つまり 「目覚めた少数者である知識人」「無知蒙昧な大衆」 という図式が崩壊したとき、啓蒙というものはもはや存在意義を失うのではないか。大学進学率が50%を超えるような社会では、啓蒙なるものは、もはや成立しなくなるのではないだろうか。

 むろん、大学にもいろいろあるというような反論もあるだろう。一流大学などというブランドはあまり当てにならぬものだが、ここで問題にしているのは、もう自分は十分に教育を受けた、これで十分だと感じている人間がすでに多数を占めるようになってきているということだ。

 「丸山」 的な、あるいは 「岩波」 的な啓蒙が権威を失っているという状況の根本的な原因は、そういうことのように思える。むろん、人々の間には今も知識や教養の差が存在する。クイズ番組などを見ていると、あきれるほど無知なタレントなんかは確かにいる。また、医学や法学などの学界や、その他の狭い専門的な世界には、それぞれに世間や初学者たちから権威と呼ばれる人が存在しているだろう。

 しかし、社会全体において権威ある知識人などは、たぶんもう存在しない。いい悪いに関係なく、現代はそういう時代なのだ。

 社会学者の宮台は、このことを 「日本では欧州にあるような意味での知識人へのリスペクトがない」、「単純化すれば日本では 『知識人も大衆もみんな同じ田吾作だ』 と誰もが思っているのです」 と言っている。しかし、私はそれはちょっと違うように思う。

 たしかに、知識人への 「リスペクト」 というのは、フランスなどではまだまだ強いのかもしれない。サルトルは反体制を標榜していたが、それでも政府によって第一級の知識人として処遇されていた。しかし、それはかなりフランスの特殊性、いってみればかなりの程度、フランスの教育制度と文化帝国主義の産物のように思う。つまり、サルトルもフーコーも文化国家としてのフランスにとっては重要な輸出品だということだ。

 要するに、自分が教育を受けていない無知な人間であり、権威ある人から知識を授けられ、教化される必要があるなどと考えている人間が存在しなければ、社会的な意味での啓蒙などということは成立しないのだ。

 このことは、社会学でいう 「大衆社会」 状況が一周おくれで戦後の日本にも到来したというということだろう。

 大衆とは、自らを、特別な理由によってよいとも悪いとも 評価しようとせず、自分が《みんなと同じ》だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。

 現時の特徴は、凡庸な精神が、自己の凡庸であることを承知のうえで、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押しつけようとする点にある。(中略)大衆は、すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれた者をすべて圧殺するのである。みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険にさらされている。......生の中心的な関心を賭博とスポーツに置く傾向、自分の肉体への強い関心 - 衛生と衣服の美への関心

 これはすべて、スペインの思想家オルテガの著書 「大衆の反逆」(1930)から引用した文である。この本はどちらかというと保守的な評論家たちのお気に入りだが、イデオロギー的な好悪に関係なく、ここに書かれていることはどれも今の日本にぴったりする。(念のために付け加えると、オルテガのいう大衆とは階級とは直接関係しない。彼の「大衆」 という概念は、当時のまだ貧しかった労働者や農民よりも、むしろ生活に一定の余裕のある中流=中産階級のほうに、より当てはまる)

 思い出してほしい。イラクで人質になった三人の家族への 「自己責任」 という言葉によるバッシングを。いじめを隠蔽したと報道された小学校の校長を自殺に追い込んだ事情も知らぬ者らによる執拗な攻撃、ネット上にはびこる匿名での中傷、スポーツのXXX世界大会のたびに繰り返される馬鹿騒ぎ、健康やダイエットをうたった食品や器具の数々、新しいゲーム機やソフトの発売が発表されると何日も前から店の前にできる行列。

 数年前にSMAPの 「世界に一つだけの花」 という歌が流行った。「オンリーワン」 といいながら、みんなで肩を並べ同じ動作で同じ歌を歌う。これは、ずいぶん奇妙なことのように思える。






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Last updated  2009.08.02 15:14:00
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