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カテゴリ:歴史その他
秀さんのエントリーに対抗しようというわけではないのだが、下の文章はちょっと気になった。
『そもそも「歴史(history)」とは「イストワール」「ヒズ・ストーリー」つまりは「物語」であって、極めて個人的な営みであろう。そこには主観しかなく、客観などありはしない。中国、韓国が主張する「正しい歴史認識」などあるはずがない。人間が六十億人いるならば、六十億通りの「歴史」がある。それをマルクスが「歴史科学の法則は客観的だ、一つの正しい歴史があるのだ」云々と、背筋が寒くなるようなインチキを言ったあたりからおかしなことになったのである。』(2006年1月号文藝春秋「司馬遼太郎さんの予言」P98) これは、もともと「なみふくくん」という方から秀さんに送られたトラックバックで引用されていた文なので、ここで取り上げるのはいささか気が引けるのだが、もともとは養老孟司さんが雑誌に発表した文だということで「なみふくくん」にも了解してもらいたい(ぺこり)。 「歴史」という言葉の語源が「物語」であるのはそのとおりなのだが、問題はそのあと、つまり「きわめて個人的な営みであろう」という部分だ。全文を読んでいるわけではないので、的外れになるかもしれないが、でもこれは違うように思う。むしろ歴史はもちろんのこと、「物語」にしたって共同的なものであり、共同性を前提にするものだと思うのだ。 紙に文字で記された物語を個人が自室に引きこもって読むという習慣が、広く一般に広まったのは、 洋の東西を問わずたかだかここ数百年のことだろう。いささか想像をたくましくすれば、一日の厳しい労働が終わったあとにしわだらけで白髪の長老が一族の若者らを焚き火のまわりに集めて、「むかしむかし~」みたいにして語りだし、それが代々語り継がれていったというのが、物語というものの始まりなのだと思う。そういう光景は、活版印刷によって読書の習慣が一般に広がるまでは、どこの家庭でも見られたのだろう。それに、たとえ個人の読書であっても、言葉というものがそもそも共同的なもののはずだ。 養老さんとすれば、国家が「歴史認識」を独占することを批判したかったのだろう。それは理解できる。しかし、だからといって、「歴史(認識)」は「個人的な営み」だということにはならない。そもそも、国家によって表現されているのは、マルクスの言葉を借りれば「幻想的な共同性」にすぎない。近代の国民国家には共同性を独占しようとする傾向があり、その結果、最悪の場合には歴史の偽造もにいたるのだろうが(革命史の中からトロツキーを抹殺したスターリンや、抗日神話を作り上げた金日成・正日親子のような)、現実の共同性というものはけっしてすべてが国家の枠内に納まるものではないだろう。 一族や家族の歴史、都市や村落の歴史、いずれにしたって歴史というものは共同的なものだ。国家や政治という概念は、社会よりも狭いものだ。共同性がすなわち国家とイコールなわけではない。だから、旧ソ連や現在の北朝鮮のような国家による歴史の独占を批判するために、歴史認識をなにも「個人的な営み」にまで引き戻す必要はないと思う。 安倍首相が「歴史認識」を問われた国会での答弁で、「そのようなことに答弁することは、学問や思想の自由が保障されているわが国ではふさわしくない」というようなことを述べていた。これは、理屈としては筋が通っているように思える。しかし、実際には閣僚や政治家による靖国参拝のような行為にも、一つの歴史観が表現されているのだ。国家には、様々な形で歴史を独占することによって、生きた歴史をイデオロギー的な神話=物語に退行させようとする傾向がある。それは、歴史を持ち出すことが支配の正統性を裏書きする最も簡単な手段だからだ。 養老さんは、共同性や共同的なるものがあまり好きではないのかもしれない。しかし、人間の共同性が好き嫌いで抹消できる問題ではないことも明らかだろう。政治家やイデオローグが、神話化された歴史に訴えることでナショナリズムを煽り立てるという光景は、いつの時代でもどこの国でも見られるものだ。そのような国家=政治に対して、「個人的な営み」としての歴史を対置することは現実的にもあまり意味があるとは思えない。現実の生きた共同性というものには様々なレベルやふくらみがある。だから、けっして一枚岩の硬直した解釈しか許さないようなものではないと思うのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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