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カテゴリ:マルクス
Der Tod scheint als ein harter Sieg der Gattung uber das bestimmte Individuum und ihrer Einheit zu widersprechen; aber das bestimmte Individuum ist nur ein bestimmtes Gattungswesen, als solches sterblich.
Death seems to be a harsh victory of the species over the particular individual and to contradict their unity. But the particular individual is only a particular species-being, and as such mortal. http://www.marxists.org/archive/marx/works/1844/epm/index.htm から
死は特定の個人に対する類の無情な勝利であり、類と個人の統一に反するように見える。しかし、特定の個人とは特定の類的存在に過ぎず、そのようなものとして死すべきものである。
こういうと、たぶんサルなんかは群れをつくって暮らしているじゃないかと反論されるかもしれません。それはそのとおりです。しかし、いずれにしても、人間と他の動物の間に絶対的な区別はありません。まして人間に最も近いサルであれば、人間との間に一定の共通性があるのは当然のことです。 人間のほかにも、サルのように群れを作って生活する動物のことを、生態学では 「社会的動物」 といいます。しかし、同じように 「社会的動物」 といっても、人間の社会性とサルの社会性の間には、たんなる規模や複雑さの違いを超えた大きな違いがあります。 サルの社会性は 「群れ」 という直接の形態でしか存在しません。群れを追放されたサルは、たんなる孤立したサルに過ぎません。しかし、人間の社会性=共同性(言い換えるなら、人間は種的(類的)存在であるということ)には、もっと大きな広がりと深さがあります。 原始的な社会ならばともかくとして、人間の社会性はむしろサルのような直接の 「群れ」 という形式を越えたところにあるといっていいでしょう。孤島に流れ着いたロビンソン・クルーソーは、難破した船から様々な道具を持ち出すことから島での生活を始めました。 また、彼自身が、イギリスという社会で実践的な教育を受けた人間です。クルーソーはもちろん虚構の人物ですが、ルバング島で30年近く生き延びた小野田さんの場合でも同じことです。 つまり、人間はたった一人の個人であっても、同時にたんなる個人を越えた 「共同」 的な存在だということです。それだけではありません。人間は、その場にいない人や、すでに死んでしまった人のことを、考えたり思い出したりします。 また、自分の子供や、自分が死んだあとに生まれてくる未来の子供たちのために、よりよい社会を作ることを願い、そのような努力をすることもあります。 そこには、生者と死者、さらにいまだ生まれざる者とのあいだの共同性が存在するといってもいいでしょう。「人間は類的存在である」 という規定には、そこまでの射程があると思います。 マルクスはいうまでもなく唯物論者です。天国やあの世などというものは信じていません。しかし、だからといって、人間は死んでしまったらそれで終わりさ、なんてニヒルでせつな的なことを言ってはいません。
であるからこそ、マルクスは上のような見方を、たんなる仮象として退けているのだと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.10.05 23:11:30
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