「死」ということ
Der Tod scheint als ein harter Sieg der Gattung uber das bestimmte Individuum und ihrer Einheit zu widersprechen; aber das bestimmte Individuum ist nur ein bestimmtes Gattungswesen, als solches sterblich. これは、Karl Marx の "Okonomisch-philosophische Manuskripte"(経済学哲学草稿)の一節です。第三手稿の「私的所有と共産主義」の中に含まれています。ドイツ語は苦手なので、英訳を探してみました。Death seems to be a harsh victory of the species over the particular individual and to contradict their unity. But the particular individual is only a particular species-being, and as such mortal.http://www.marxists.org/archive/marx/works/1844/epm/index.htm から これを日本語にすると、次のようになります。死は特定の個人に対する類の無情な勝利であり、類と個人の統一に反するように見える。しかし、特定の個人とは特定の類的存在に過ぎず、そのようなものとして死すべきものである。 Gattung は一般に 「類」 と訳されていますが、英訳での Species(スペシーズ)を見れば分かるように本来はたんに生物学でいう 「種」 のことを意味します。 この文は、同じ 『経哲手稿』 の中にある 「人間は類的存在である」 という規定を前提にしています。 ネコやイヌは、自分がネコとかイヌとかいう類(種)であることを意識していません。しかし、人間は自分がヒトという類(種)であることを意識しています。 こういうと、たぶんサルなんかは群れをつくって暮らしているじゃないかと反論されるかもしれません。それはそのとおりです。しかし、いずれにしても、人間と他の動物の間に絶対的な区別はありません。まして人間に最も近いサルであれば、人間との間に一定の共通性があるのは当然のことです。 人間のほかにも、サルのように群れを作って生活する動物のことを、生態学では 「社会的動物」 といいます。しかし、同じように 「社会的動物」 といっても、人間の社会性とサルの社会性の間には、たんなる規模や複雑さの違いを超えた大きな違いがあります。 サルの社会性は 「群れ」 という直接の形態でしか存在しません。群れを追放されたサルは、たんなる孤立したサルに過ぎません。しかし、人間の社会性=共同性(言い換えるなら、人間は種的(類的)存在であるということ)には、もっと大きな広がりと深さがあります。 原始的な社会ならばともかくとして、人間の社会性はむしろサルのような直接の 「群れ」 という形式を越えたところにあるといっていいでしょう。孤島に流れ着いたロビンソン・クルーソーは、難破した船から様々な道具を持ち出すことから島での生活を始めました。 また、彼自身が、イギリスという社会で実践的な教育を受けた人間です。クルーソーはもちろん虚構の人物ですが、ルバング島で30年近く生き延びた小野田さんの場合でも同じことです。 つまり、人間はたった一人の個人であっても、同時にたんなる個人を越えた 「共同」 的な存在だということです。それだけではありません。人間は、その場にいない人や、すでに死んでしまった人のことを、考えたり思い出したりします。 また、自分の子供や、自分が死んだあとに生まれてくる未来の子供たちのために、よりよい社会を作ることを願い、そのような努力をすることもあります。 そこには、生者と死者、さらにいまだ生まれざる者とのあいだの共同性が存在するといってもいいでしょう。「人間は類的存在である」 という規定には、そこまでの射程があると思います。 マルクスはいうまでもなく唯物論者です。天国やあの世などというものは信じていません。しかし、だからといって、人間は死んでしまったらそれで終わりさ、なんてニヒルでせつな的なことを言ってはいません。死は特定の個人に対する類の無情な勝利であり、類と個人の統一に反するように見える。 人は死んだ後も、生きている人たちの記憶の中に残ります。ある人が生きていた記憶と痕跡は、必ず社会の中になんらかの形で残されます(もっとも記憶には良いものも悪いものもありますが)。 であるからこそ、マルクスは上のような見方を、たんなる仮象として退けているのだと思います。