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カテゴリ:歴史その他
「自由とは必然性の洞察である」 とは、エンゲルスが書いた 『反デューリング論』 にあるヘーゲルをもとねたにした言葉だが、昔から評判が悪い。 なになに、とすると必然性を洞察してその必然性に従うことに自由が存在するというわけか。 というわけで、かつて 「未来はプロレタリアートのものである」 ということが素朴に信じられた時代には、早合点したインテリはあわてて 「プロレタリアートの立場」 なるものに移行し、やがて弾圧という現実の壁にぶち当たると、またあわててもとの道に引き返した。ほんでもって、戦争が終わると 「革命の必然性」 とやらで、またもやくるりと身を翻す。 社会の情勢が変わるたびに右を向いたり左を向いたりと、なんとも忙しいことだ。 そんなふうに時代の必然性とやらを洞察して、つねにその方向に身を処すというようなやり方を見せ付けられては、ヘーゲルの言葉が胡散臭く思われても仕方がない。 自由とはいうまでもなく人間の主体性を前提にする。自分の主体性なしに、風見鶏のようにあっちにふらふら、こっちにふらふらしておいて、「君々、自由とは必然性の洞察なのだよ」 なんてことを偉そうに言っていちゃあ、それはただの無責任じゃないのと言い返されてもしょうがない。 で、エンゲルスもヘーゲルさんも、本当にそんないい加減な人だったのかしら? まずは、エンゲルスの言葉から 「意志の自由とは、事柄についての知識を持って決定をおこなう能力をさすものにほかならない」 これと反対の見方は、自分の身にふりかかることを、他人や恵まれぬ事情やのせいにする見方である。これは再び不自由の立場であり、不満のもとである。自分の身にふりかかることを自分自身の発展とのみ見、自分はただ自分の罪を担うのだということを認める人は、自由な人として振舞うのであり、その人は自分の身にどんなことが起こっても、それは少しも不当ではないのだという信念を持っている。
他方、無知に基づく不確実さは、異なった相矛盾する多くの可能な決定のうちから、外見上気ままに選択するように見えても、まさにそのことによって、自らの不自由を、すなわち、それが支配するはずの当の対象に自ら支配されていることを証明するのである。 だから、二人とも 「必然性を洞察したら、ただその必然性に身を任せなさい、それが自由なんですよ」 なんて阿呆なことを言っているわけじゃない。無知の中には自由は存在しないという、きわめて当たり前のことを言っているだけなのだ。 世の中には、ときには負けると分かっていても戦わずにいられない場合もある(ちょっとかっこつけすぎ?)。その場合、「敗北」 という必然性を認識して、「戦いなんてやめちゃおうよ、どうせやるだけ無駄だしー疲れるだけだしー」 なんてことは、自由な行為とは誰も言わない。 なにも玉砕をすすめはしないけど、これはただの日和見主義だ。もちろん、敗北の必然性に目をふさぎ、きっと勝てるよ、何とかなるよ、なんて甘い幻想にひたってええ加減に戦いを始めることが自由な行為ではないことは、上で言ったとおりだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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