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カテゴリ:雑感
人間に尊厳というものがあるとすれば、それは人間がある意味で互いに理解不能であり、したがってまたなにをしでかすか根本のところでは分からない不可思議な存在であるということと同義ではないだろうか。 これから見てゆくように、現代的な訓練または条件付けの技術を応用すれば、威嚇したい(引用者ー 実際の殺傷行為ではなく、単なる威嚇に止めておきたいという意味です)という人間の性向をある程度克服できる。事実、戦争の歴史は訓練法の歴史といってよいほどだ。兵士の訓練法は、同種である人間を殺すことへの本能的な抵抗感を克服するために発達してきたのである。 ということは、文明化され啓蒙された兵士とは、要するに 「同種である人間を殺すことへの本能的な抵抗感を克服」 した兵士だということになるだろう。啓蒙には野蛮が、進歩には退歩がつねに寄り添っているというのは、そういう意味だ。こういった訓練が現実に有効であることは、一兵卒から中佐にまでのぼりつめ、陸軍士官学校の教授を務めた人の言うことだから間違いあるまい。 だから、人間を対象にした技術に一定の有効性があることは否定できない。 また、そのような技術が技術それ自体としてだけでなく、場合によっては社会や当該の個人にとっても有用な場合があることも否定できないだろう。 しかし、このような人間を対象とする技術というものの根底にあるのは、なんなのだろうか。技術とは対象=客体を操作可能なものと見て、そのために体系化された主体的=客体的な働きかけを行うものということができるだろう(武谷三男の言葉を借りれば、「客観的法則性の意識的適用」 ということになる)。そのような科学的で技術主義的な発想が、近代文明の発展を可能にしてきたことは言うまでもない。 だが、そのような技術的発想は、はたしてそのまま人間にも適用できるものなのだろうか。人間を操作主体と操作客体とに分割し対立させるような発想自体には、なにも問題ないのだろうか。単に、そのような技術も悪用せずに、正しい目的のために上手く使いこなせばいいということなのだろうか。 私は、そこではたと考え込んでしまうのだ。 人間が肉体的心理的な技術によって、ああにでもこうにでも作り変えることのできる操作可能な対象であり、またその行為がなんらかの観察によって客観的に予見可能なのだとしたら、人間は結局生命のない死んだ事物と同じだということになりはしないだろうか。 人間は、はたしてここをこうすればこうなる、あそこをああすればああなる、というような単純な存在なのだろうか。 もしそうだとすれば、人間の自由だとか尊厳だとかいう言葉は、すべて中身のないただの作り話だということになりはしないだろうか。人間は、実験室の中で科学者や研究者によって様々な行動や反応を測定されている、哀れな動物たちと同じだということなのだろうか。 以上、なんの結論もでない取り留めのない話でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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