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カテゴリ:マルクス
内田樹氏の 「さよならマルクス」 という記事に対して、池田信夫 (有名なエコノミストだそうですが、詳しいことは知りません) という人が次のような批判を行っている。
たしかにマルクスは児童労働の悲惨な状況を描いたが、「競争原理から子供を守れ」 などと主張したことはない。それどころか、彼は次のように書いているのだ: さらに、池田氏は 「(マルクスは)後年の 『ゴータ綱領批判』 では、もっとはっきり書いている」 という。 児童労働の全般的な禁止を実行することは ―― もし可能であるとしても ―― 反動的であろう。というのは、いろいろの年齢段階に応じて労働時間を厳格に規制し、また児童の保護の為にその他の予防措置をするなら、生産的労働と教育とを早期に結合する事は、今日の社会を変革するもっとも強力な手段の一つであるからである。 (以上、池田氏のブログ記事 「マルクスにさよならをいう前に」 から) いまさら指摘するのもあほらしい話だが、オーウェンの主張にしてもマルクスの主張にしても、そこで言われている 「労働」 は、個々の人間の身体的人格的な発達にも欠かせない人間の本源的活動としての労働なのであって、利潤追求のための安い労働力として利用される 「児童労働」 や、強制的半強制的な苦役としての労働とは全然別の話である。それは、彼が引用している文章からも明らかなのだが、池田氏自身はそんなことにも気付いていないようだ。 そのような違いを抜きにして、マルクスが 「競争原理」 のもとでの児童労働を容認したかのような引用を行うのは、これはもう恣意的引用としか言いようがない。 池田氏は、「公教育は(内田氏の主張するように)子供を保護するためではなく、工場の規律に合わせて労働者を規格化するためにつくられたものだ」 と、一見ラジカルそうなことを言う。この言葉に付け加えるなら、公教育は雇用している児童からの収奪しか考えない利己的な個別資本の立場を超えた、「労働力商品」 の持続的な再生産という総資本の立場と、社会の存続という国家的な見地から導入されたものということができるだろう。 「歴史的には(途上国では今でも)子供は労働力である」 「学校だけが、社会のルールから保護された楽園であるはずもない」 だって? そりゃあ、そうだろう。そんなことは、誰でも知っていることだ。で、だからどうしようというのだ。誰でも知っている程度のことを、さも自分しか知らないことのようにごたいそうに持ち出すのは、失礼ながら、かえって自分自身の無知と非常識をさらけ出すものだと思う。 池田氏は、「運動会で着順をつけるのが「差別」だからみんな同着にしよう、というように子供を競争原理からずっと保護し続けることができるなら、それもいいだろう」 と、皮肉のつもりなのか、どこかで聞きこんだらしいことを言ったあとに、「マルクスは競争原理を否定したこともないし、平等を実現すべきだと主張したこともない」 と、結論付けているが、これもまた著しく曖昧で意味不明な言葉だ。 もし、池田氏が「マルクスは競争一般を否定したこともないし、画一的な平等を実現すべきだと主張したこともない」というつもりであったのなら、それはそうだ。 しかし、マルクスが一貫して批判したことは、人間が 「競争原理」 なるものの奴隷になっているという状況であり、社会が 「持つもの」 と 「持たざるもの」 に分裂し対立しているという事実ではなかっただろうか。そんなことは、いちいち引用する必要もない常識だ。 もしも池田氏が 「マルクスは競争原理を否定したこともない」 などという言葉 (そもそも、池田氏の言う 「競争原理」な るものの意味が不明確なのだ。運動会のような子供同士の無邪気な 「競争」 と、市場原理のもとで人間に押し付けられる社会的な 「競争」 とを、同じ 「競争原理」 という言葉で同列に論じようというのではお話にならない) でもって、読者に対してマルクスはすべての競争を容認していたかのように印象付けようとしているのなら、それはまったくの嘘であり、論理的な詐術というものだ。 「『さよなら』をいう前に、内田氏はちゃんとマルクスを読んだほうがいいのではないか」と、池田氏は言っている。 別に私は内田氏のファンでも 「良き読者」 でもない。内田氏の文章で手元にあるのは、ちくま文庫版の加藤典洋氏の 「敗戦後論」 に書かれた解説ぐらいなものである。それも、二度目に読み返したときに、最後の解説をあらためて開いて初めて気がついた程度にすぎない。 だから、内田氏のマルクスの読み方を弁護するつもりもないのだが(もちろん、そんな必要もないだろうが)、そもそも池田氏は今の時代にもマルクスはもっと読まれるべきだと言いたいのだろうか。いやいや、どうもそういうわけでもないらしい。 結局、この人は 「自分のほうがマルクスを正しく引用できますよー」 と自慢したいだけなのだろうか。しかし、「正しく引用できること」 は、必ずしもその内容を正しく理解できているということは意味しないのだ。それにしても、なんとも奇怪な 「マルクスの読み方」 である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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