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カテゴリ:ギリシア哲学
デモクリトスは、BC5世紀から4世紀にかけて生きていた人と言われています。一方、エピクロスはほぼ彼と入れ違いに生まれたようで、BC4世紀から3世紀にかけての人だと思われます。
一般にデモクリトスは古代原子論の父と言われており、エピクロスはそれから何代か隔てた、彼の思想の継承者だということになります。 マルクスが指摘した「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学との差異」ということは、古くから論じられていることで、たとえばローマ時代の哲学者キケロは次のように言っています。 「エピクロスは、もしも原子がみずからの重さのために落下すると、原子のこの運動は確定された必然的なものとなり、人間の力が及ばなくなることを見抜いた。そこでエピクロスは、この必然性から逃れる手段を見つけたが、これはデモクリトスも気付かなかったことだ。エピクロスは、原子はその重さと重量のために上から落下するが、わずかに逸れるというのである。こんなことを口にするのは、言いたいことをきちんと主張できないよりも、もっと恥ずかしいことだ」 『神々の本性について』 これに対して、エピクロスを支持するローマの詩人ルクレティウスのほうは、次のように言っています。 逸れる習慣がなければ 原子の衝突も起こらず、打撃も起こらず (自然は)なにも生み出さなかっただろう 『事物の本性について』 このルクレティウスの詩は、原始的な宇宙の生成に関する現代の理論とそっくりのように思えますね。 もともとストア学派というのは「必然性」を重んじる立場だし、エピクロスは神様の存在こそ否定しなかったものの、「神様は神様、人間は人間。神々なんて、おれたち人間には関係ないね」みたいなことを言った人だから、後期ストア派のキケロが彼に厳しいのは仕方がないでしょう。ただ、エピクロスの原子の「逸れ」が必然性を破るものだというキケロの指摘は間違っていないし、逆にエピクロスの原子論を支持する側もそこを評価しているわけです。 デモクリトスの自然哲学が必然的な運動を原理としているのに対して、エピクロスは次のように言っています。 「必然性がすべてのものを支配する女王であるという主張もある。しかしじつは必然性などというものは存在しない。偶然に生まれるものがあるし、人間の恣意によって生まれるものもあるだけだ。必然は人間の手に負えないものであり、偶然は定まらないものだ。自然学者は宿命なるものを唱えるが、その奴隷になるくらいなら神々についての物語を信じているほうがましだ。神話を信じていれば、まだ神々を敬うことで願いが聞き届けられるという希望がある。ところが宿命なるものを信じてしまうと、過酷な必然性しか残らない。多くの人々が神の働きだと信じているものは、じつは偶然の働きなのである」 『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』より このような、宿命という必然性を否定するエピクロスの立場こそが、22歳の青年マルクスが熱烈に支持したものです。 彼は、エピクロスの自然哲学の原理を次のようにまとめています。 しかし、実は自己意識の絶対性と自由こそが、エピクロスの哲学の原理なのである。ただし、自己意識は、その個別性の形式でしか捉えられていないのだが。 『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』 この当時のマルクスは、ヘーゲル哲学の解体によって生まれたいわゆる青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)の中のバウアー(バウエル)派に属しており、言葉遣いはヘーゲル哲学そのものですが、自己意識という概念は人間の主体性、あるいは主体的な人間といった意味になると思います。 ここで指摘された「個別性の形式でしか捉えられていない」自己意識が、次にフォイエルバッハの「類的存在」という思想を学ぶことにより、普遍的な立場へと進んでいくのだと思います。 この時期のマルクスは完全に観念論の圏内にいます。そのため、この彼の論文は、従来好事家的な人の興味の対象にしかなっていませんでした。せいぜい、物好きな人によって、ここに後の唯物史観の萌芽があるとか、あそこに階級闘争論のつぼみがあるとか言われる程度の話です。 しかし、偉大な思想の発展とは、かつて吉本隆明が指摘したように、その思想を一貫して貫いている原理の問題なのだろうと思います。そして、その原理とは、この場合一言で言えば「必然の王国」から「自由の王国」へということになるのだと思います。このマルクスの「学位論文」をコレクションに採録して広く読めるようにした編集者は、さすがであります。 最後に、エピクロスの言葉をいくつか紹介することにします。 「それらのアトムの中には、(A)相互にかなりの距離を隔てて運動しているものもあれば、(B)その場所(合成物のなか)で振動を続けているものある」 「世界は無限に数多くあり、そのあるものは、われわれのこの世界に類似しているが、他のものは、類似していないのである」 「われわれが声を出すときに、われわれの内部に生じる衝撃が、呼気に似た流れを作り上げるところの、ある種の粒子たちをただちに押し出すのであり、そしてそのことがわれわれに聞こえるという状態をもたらすのだと考えるべきである」 「さらにまた、もろもろのアトムは、それらに衝突するものが何もなくて、空虚の中を運ばれていくときには、必ず等しい速さで運動するものでなければならない」 エピクロスだけに限りませんが、このような古代ギリシアの哲学者の思想は、科学か哲学かというような、煩瑣であまり意味があるとは思えない議論を超えた、人間の思惟、すなわち理論的理性の力というものの強さとすばらしさを教えてくれているように思います。 なお、文中の引用の多くは、ディオゲネス・ラエルティオス著『ギリシア哲学者列伝』(岩波文庫)に拠っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.10.14 05:48:17
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