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カテゴリ:マルクス
「唯物論」 とはなにかというと、神や精霊、幽霊のような、物質的な基盤を持たない 「存在」 の存在を認めない思想的立場ということになるだろう。 ある思想が 「唯物論」 という立場を標榜していたとしても、そのことだけでそれが価値の高い優れた思想だということにはならない。ちょっとずれるかもしれないが、それは 「進歩的」「革新的」 であることを標榜している作家の小説が、「保守的」「反動的」 である作家の小説よりもつねに優れているとは限らないというのと、同じようなことだ。それとこれとは、まったく別の問題なのである。 しかし、科学というものが、基本的に唯物論の立場に立つことは言うまでもない。生命の誕生やその進化、銀河系や太陽系、地球の誕生、物質の生成といった問題を解明するときに、自分の研究が行き詰ったからといって、芝居の最後に出てくる 「機械仕掛けの神様」 かなにかのように、「それは神様の意思なのでーす」 みたいなことを言い出す科学者がまともな科学者だと思う人は、たぶんいないと思う。もちろん、そのことは、その科学者が個人としては敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒、仏教徒、ユダヤ教徒などであったりすることとは、いちおう別の問題だ。 三浦つとむの言う言語の本質にしてもそうだ。今は、いちいち彼の著書を参照する暇がないので記憶だけで言うが、彼が捉えた言語の本質は、「言語規範」 (三浦の場合、いわゆる文法だけでなく、社会的に共通して承認されている 「語彙」 (要するに辞書などで説明されている言葉の意味のこと) も、具体的な個人がなにかを表現する場合に依拠する約束事として、「言語規範」 と呼ばれる) を媒介とした 「表現」 ということだ。この表現の中身は、その個人の認識であったり意思であったりするが、いずれにしても 「物質的な実体」 などではない。 ただ、そのような表現は人間自身の身体 (手話などの身振り言語の場合)、紙の上の墨やインク、発光装置による光 (文字言語の場合)、空気の振動 (音声言語の場合)といった物理的な媒体を必ず必要とする。ある人間の認識や意思がそのまま空中をびゅーと飛んでいって、別の人間の頭の中へすとんと入るといったことはありえないし、手と手をつないだり目と目で見つめあったり、おでことおでこをくっつけたりしても、たぶんそういうことは不可能だろう (いちおう、普通の人の場合)。 人間の認識や意思は、まずその人間の脳髄という物質的な存在のなかで成立し、次に必ずなんらかの物質的な媒体に表現として対象化されたあと、別の人間によってその人間自身が社会と共有している 「言語規範」 を媒介として認識されるということになる。 ただし、三浦が言う社会的な 「言語規範」 (言語についての社会的な意識) というものは、憲法や法律のように成文化され、実定的に固定化されたものではない。 普通、人は自分が幼いときから身に付けた言語を使うときにいちいち辞書で確認したりはしないし、同じ単語や表現の場合でも、その意味は個人が育った環境やイデオロギー的立場などによって微妙に異なっている (とくに、「人権」 や 「平和」、「愛国心」 などという、具体性のない抽象的な言葉の場合には、そのような隔たりはきわめて大きくなってくる)。 しかし、単なる 「物質的な実体」 そのものを見つけ出して、「これが本質だ」、「はい、それまーでよ」 というのは、原始的で素朴な唯物論の立場であり、三浦つとむの言葉を借りれば、「客観主義的に偏向した」「俗流唯物論」、「タダモノ論」 の立場に過ぎない。そのことは、価値をめぐるマルクスの議論からも明らかだろう。 「唯物論か観念論か」 みたいな問題が、なにも今の時代にことさら問われなければならない大問題だなどとアナクロなことを言うつもりはないが、原理的に言う限りでは、唯物論の立場からは、意思や認識、表現、表象、経験などといった主観的な問題や観念的な問題を扱えないなどということはけっしてないはずである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.09.27 16:49:14
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