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カテゴリ:マルクス

 「唯物論」 とはなにかというと、神や精霊、幽霊のような、物質的な基盤を持たない 「存在」 の存在を認めない思想的立場ということになるだろう。

 単純に 「唯物論」 といったときは、それ以上の意味は持たない。だから、一言で唯物論といっても、原始的で素朴なものから、発展し洗練されたものまで、いろいろある。言い換えれば、その中には、優れた 「観念論」 よりも思想としての価値が劣る、話にならないくだらないものもあるということだ。

 ある思想が 「唯物論」 という立場を標榜していたとしても、そのことだけでそれが価値の高い優れた思想だということにはならない。ちょっとずれるかもしれないが、それは 「進歩的」「革新的」 であることを標榜している作家の小説が、「保守的」「反動的」 である作家の小説よりもつねに優れているとは限らないというのと、同じようなことだ。それとこれとは、まったく別の問題なのである。

 しかし、科学というものが、基本的に唯物論の立場に立つことは言うまでもない。生命の誕生やその進化、銀河系や太陽系、地球の誕生、物質の生成といった問題を解明するときに、自分の研究が行き詰ったからといって、芝居の最後に出てくる 「機械仕掛けの神様」 かなにかのように、「それは神様の意思なのでーす」 みたいなことを言い出す科学者がまともな科学者だと思う人は、たぶんいないと思う。もちろん、そのことは、その科学者が個人としては敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒、仏教徒、ユダヤ教徒などであったりすることとは、いちおう別の問題だ。

 マルクスによれば、労働の産物である 「商品」 が体現する価値の本質は、その商品の生産のために支出され、その商品に対象化された 「労働」 である。パソコンであれ机であれ、目に見える 「商品」 は物質としてみれば、単に鉄や木、プラスチック、ガラスといった素材の組み合わせにしか過ぎない。どんなに倍率の高い顕微鏡で出来上がった 「商品」 を検査してみたところで、その商品の生産に支出された 「労働」 なるものを発見することはできない。

 だから、マルクスが言う 「価値の本質」 というものは、なんらかの 「物質的な実体」 などではない。(いちおう断っておくが、ここで問題にしているのはマルクスの 「労働価値説」 の当否ではなく、その論理的な構造である)

 三浦つとむの言う言語の本質にしてもそうだ。今は、いちいち彼の著書を参照する暇がないので記憶だけで言うが、彼が捉えた言語の本質は、「言語規範」 (三浦の場合、いわゆる文法だけでなく、社会的に共通して承認されている 「語彙」 (要するに辞書などで説明されている言葉の意味のこと) も、具体的な個人がなにかを表現する場合に依拠する約束事として、「言語規範」 と呼ばれる) を媒介とした 「表現」 ということだ。この表現の中身は、その個人の認識であったり意思であったりするが、いずれにしても 「物質的な実体」 などではない。

 ただ、そのような表現は人間自身の身体 (手話などの身振り言語の場合)、紙の上の墨やインク、発光装置による光 (文字言語の場合)、空気の振動 (音声言語の場合)といった物理的な媒体を必ず必要とする。ある人間の認識や意思がそのまま空中をびゅーと飛んでいって、別の人間の頭の中へすとんと入るといったことはありえないし、手と手をつないだり目と目で見つめあったり、おでことおでこをくっつけたりしても、たぶんそういうことは不可能だろう (いちおう、普通の人の場合)。

 人間の認識や意思は、まずその人間の脳髄という物質的な存在のなかで成立し、次に必ずなんらかの物質的な媒体に表現として対象化されたあと、別の人間によってその人間自身が社会と共有している 「言語規範」 を媒介として認識されるということになる。 ただし、三浦が言う社会的な 「言語規範」 (言語についての社会的な意識) というものは、憲法や法律のように成文化され、実定的に固定化されたものではない。

 普通、人は自分が幼いときから身に付けた言語を使うときにいちいち辞書で確認したりはしないし、同じ単語や表現の場合でも、その意味は個人が育った環境やイデオロギー的立場などによって微妙に異なっている (とくに、「人権」 や 「平和」、「愛国心」 などという、具体性のない抽象的な言葉の場合には、そのような隔たりはきわめて大きくなってくる)。

 このような 「言語規範」 はいわば暗黙の了解によって成立しているに過ぎないから、当然きわめて流動的であり、ある言葉の意味が、いつのまにかまったく反対のものになっていた、なんてことも珍しくはない。使われなくなった言葉はやがて消えていくし、それと反対に新しい言葉も次々登場してくる。それに、ある人によって言葉で表現された内容を別の人が正しく認識できるかどうかは、当然のことだが、受け取る側の言語や論理、思考の能力によっても左右される。

 そういうわけで、言語を媒介とした人間のコミュニケーションにはいつの時代にも 「誤解」 がつきものということになり、また、そのことを逆手にとって、「失言」 を非難されると「それは誤解だー」 みたいな弁明で言い抜けようとする大臣も出てくるわけだが、三浦つとむが解明した 「言語の本質」 というものも、以上のようにけっして 「物質的な実体」 などではない。ただ、それはなんらかの 「物質的な存在」 によって担われなければ存在し得ないというだけのことだ。その意味で、彼の言語論は、「言語の本質」 を 「物質的な実体」 に求めるものではないにもかかわらず、唯物論的なのだ。

 前にもちょっと書いたが、「現象論」-「実体論」-「本質論」 という武谷三男の 「三段階論」 では、「本質論」 は 「実体論」 の先に置かれている。単なる物理的な実体に関する議論は、いまだ 「本質論」 ではない。「実体論」 からさらに、そこで解明された実体同士の法則的な関係の追求まで進まなければならない、というのが彼の主張なのだ。だが、このような 「実体」 のさきに 「本質」 を求めよという主張は、ヘーゲルかぶれの 「観念論」 だとして、当時の党公認の主流的な理論家や権威ある自称唯物論哲学者などから激しく批判され攻撃された。

 しかし、単なる 「物質的な実体」 そのものを見つけ出して、「これが本質だ」、「はい、それまーでよ」 というのは、原始的で素朴な唯物論の立場であり、三浦つとむの言葉を借りれば、「客観主義的に偏向した」「俗流唯物論」、「タダモノ論」 の立場に過ぎない。そのことは、価値をめぐるマルクスの議論からも明らかだろう。

 「唯物論か観念論か」 みたいな問題が、なにも今の時代にことさら問われなければならない大問題だなどとアナクロなことを言うつもりはないが、原理的に言う限りでは、唯物論の立場からは、意思や認識、表現、表象、経験などといった主観的な問題や観念的な問題を扱えないなどということはけっしてないはずである。






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Last updated  2009.09.27 16:49:14
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