「機能主義」 という言葉は、「歴史主義」 や 「原理主義」 といった言葉と同様に、人によって、あるいは学問の分野によって様々な使われ方がされている。そのため、その意味は必ずしも同じではないが、次のような意味で使われている場合はどうだろうか。
現象を観察するときに、そこに実体を把握することが極めて難しい場合がある。たとえば社会というような対象を考える際には、社会そのものは実体としては見えてこない。社会を構成する人間一人一人は実体的に把握できても、その人間が構成する社会というのは、人間の実体的な身体を延長しても解明できることは何もない。
この場合われわれが観察できるものは、ある現象が起こった後に他の現象がつながるという、機能的な側面だけになる。宮台氏的な表現を使えば、われわれに観察できるのは行為の行動的側面だけということになる。
このような考え方が、われわれ人間に認識できるのは 「現象」 の世界だけであって、人間の認識は 「物自体」 には到達できないとした、カントの 「不可知論」 の現代版であることは、容易に見て取れるだろう。
確かに、「社会」 そのものは、それを構成している個々の人間のように手で触れることのできる 「実体」 ではない。なぜなら、「社会」 という存在は、それを構成する 「実体」 としての個人の総和には解消されないからだ。
しかし、「全体」 が部分の総和を超えるということは、自然界でもごく普通に見られることである。たとえば、生きている細胞をその構成要素である元素に還元してしまえば、当然のことながら細胞は死んでしまう。つまり、炭素や水素、酸素、窒素などという元素を一定の形式で構成した 「細胞」 という 「実体」 は、その構成要素である元素という 「実体」 の総和には解消されないということだ。
「社会」 とは、一言で言えば 「労働」 を媒介にして直接的間接的に結合した人間の総体ということになるだろう。この場合に、社会という 「全体」 が個人という 「部分」 の総和を超えるという事実は、「社会的な分業」 という具体的な事実によるものであって、どこにも原理的な認識が不可能な神秘めいた謎などはない。
だから、そのような 「全体」 が 「部分」 の総和を超えるという誰もが認める事実から、「システムにおいては決して実体的な捉え方は出来ないということを意味するのではないだろうか」 として、「われわれに観察できるのは行為の行動的側面だけということになる」 と主張するのは、いささか飛躍であり、あまりに簡単に結論を急ぎすぎているのではないだろうか。
ところで、このような機能主義的発想を心理学に適用すると、いわゆる 「行動主義心理学」 ということになる。
ワトソンによって代表される 「行動主義心理学」 とは、心理学の研究対象から 「こころ」 や 「意識」 といったものを排除して、客観的に観察可能な 「行動」 というものにその対象を絞るものである。
犬にえさを与えるときに必ず同時にベルを鳴らすようにしたら、しまいにはベルを鳴らすだけで犬は唾液を出すようになったという 「パブロフの犬」 の話は有名だが、このように、人間を含めた動物に対して、どういう刺激が与えられたら、どういう反応=行動を示すかを研究するのが、この行動主義心理学である。
つまり、心の中がどうなのかというようなことは 「主観的」 な問題であり、外側からする客観的=「科学的」 な観察は不可能である。だから、「こころ」 とか 「意識」 とかいうものを一種のブラックボックスとして無視し、最終的にはその 「作用」 も否定して、ただ単に 「どのように行動したのか」 という客観的な観察が可能な事実だけを取り上げるということだ。
なんでもワトソンという人は、「もし自分に生後間もない健康な子供を預けてくれるならば、その子供をどんな性格にでも、どんな職業人にでも育て上げてみせる」 と豪語したらしいが、これを見ると、この人が哲学的にはもっとも卑俗な機械的決定論の立場に立っていることがよく分かる。
こういう言葉を聞くと、ずいぶんとまあ人間というものを舐めたものだと言わざるを得ないが、心理学という学問の領域から、「客観的な観察が不可能だ」 ということを理由に、「こころ」 とか 「意識」 というものを排除する立場が、同時に 「科学」 の装いをとったきわめて卑俗な唯物論の立場でしかないことも明らかだろう。
パブロフが提唱した 「条件反射」 理論が一定の真理を有することは否定しないが、それはそれだけのことである。人間の 「心理」 や 「行動」 が、そのような理論だけですべて説明されるような単純なものではないことは、いまさら言うまでもないことだ(犬だって、むろんそう単純ではあるまいが)。
これまでのすべての唯物論(フォイエルバッハも含めて)の主要な欠陥は、対象、現実性、感性が、ただ客体あるいは直観の形式でのみ把握されていて、人間的・感性的な活動、実践として把握されず、主体的に捉えられていないことである。
これは、マルクスの死後に彼が残した古いノート(未完のまま放棄された 『ドイツ・イデオロギー』 執筆当時の)の中から、エンゲルスが発見して公表した、いわゆる 「フォイエルバッハ・テーゼ」 の一節である。このテーゼは、次のように続いている。
そのため、この活動する側面は、唯物論からではなくかえって反対に観念論のほうから展開されるというようなことになった。
どうやら、マルクスはまだまだ 「あの世」 でもゆっくりとは死ねないようである。