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カテゴリ:歴史その他
たぶんジョン・リードの『世界を揺るがした十日間』の中にあった話ではないかと思うが、ケレンスキーを追放して権力を握ったレーニンは、 帝政派やケレンスキーを支持するグループの反撃を撃退して首都のペトログラードを1週間守りきったとき、政府が置かれた宮殿の外に出て、雪の中でトロツキーとともに歓喜のあまり転げまわってはしゃいだという。
10月革命の様子を活き活きと描いたジョン・リードのこの本は、トロツキーの活躍を描く一方でスターリンの名前はほとんど出てこないために、旧ソビエト時代には事実上発禁扱いだったそうだ。 これもまたうろ覚えの話だが、ロシア革命の研究で有名なE.H.カーが、どこかで当時のレーニンの政府を「同時代のヨーロッパで最も知的水準の高い政権」と評していたような覚えがある。 当時の革命的状況の中で、当初はただの過激な夢想家としか思われていなかったレーニンとそのグループが急速に力を伸ばしたのは、言うまでもなくトロツキーをはじめとする優秀な人材がそろっていたからである。 しかし、この時代にそのような優れた能力を持った革命家達が輩出し、彼らがレーニンという人物の周囲に結集したのも、当時の歴史的状況によるものだろう。ロシアには20世紀に入っても旧態依然たる体制が残っており、そのことがこの国における革命を要求していたのだ。だからこそ、この時代のロシアには世界的なレベルに達する作家や思想家が次々と生まれ、またレーニンやトロツキーのような優秀な人間達が続々と革命運動に参加したのだろう。 もしも、そのような時代でなければ、レーニンはたとえばせいぜい優秀な弁護士として生涯を終えたかもしれないし、トロツキーは評論家かジャーナリストとして、またその他の者は学者や研究者として落ち着いた生涯をまっとうしていたかもしれない。 だから、レーニンの周囲に優れた革命家達がそろっていたということ自体にも、一つの歴史的必然性があるということが言えるだろう。だが、いずれにしても人がどこのどのような時代に生まれ育つかは、いわば運命のようなものであって、その人にはどうしようもないことだ。 ソビエト崩壊によってかつては秘密にされていた様々な文書が公開されており、この時期のレーニンの行動については「再検討」を要求する声もある。歴史から教訓を学ぶことはもちろんよいことだが、すべてにおいて過ちのない行動などはありえない。そもそも、あの時代に、広大なロシアを統治する能力を持った政治集団が、レーニンとそのグループ以外にはたして存在しただろうか。 「帝国主義論」や「国家と革命」など、レーニンの理論的著作と呼ばれるものはたくさんある。しかし、むしろ革命後の多忙の中で書かれた演説の草稿や報告などの類にこそ、今もなお読まれる価値があるのではないかと思う。そこには、なによりも新たな歴史の中で試行錯誤しながら現実に生きている人間の声が映し出されている。 マルクス・レーニン主義などという言葉は、彼の死後に後継者らによって作り出されたものだ。そんなことはミイラにされて保存されることや、銅像が建てられること、町の名前に残されることと同様に、彼自身はまったく考えてもいなかっただろう。だが、そのような言葉が消滅したとしても、三度の飯よりもチェスが好きだったという(?)「偉大なる常識人」であったレーニンという人の価値は、最終的にはそのあたりに残されるのではないかと思う。 「陰謀史観」というものは現代でも絶えないが、大きな歴史の流れというものは、けっして「ユダヤ人の陰謀」や「フリーメーソンの陰謀」などといった誰かの陰謀などで動くものではない。 とはいえ、ある行動が最終的に成功するかそれとも失敗するかは、もちろん歴史の法則などによっては説明できない。 雪の中でトロツキーと転げまわったレーニンは、たぶんそのことを他の誰よりもよく知っていたのだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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