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カテゴリ:社会
 近代社会の特徴は、経済と政治が分離しているということだ。経済は、価値法則によって自律的に運動するのであり、だからこそいわゆる社会科学の中では経済学が最も早く成立したのだろう。

 たとえば、前近代的な社会の一つである封建社会では、土地を領有する者が同時にその土地に居住する耕作者を支配し、経済外的な強制つまり暴力によって余剰生産物を年貢として収奪する。

 そこでは、土地の領有者としての私権的支配と、政治的支配者としての公権的支配とが分離していない。というよりも、政治的支配者としての地位は、土地の領有者たる地位に裏付けられているのだ。

 だから、年貢として納められた税は、公的支配や秩序維持の費用としてだけでなく、支配者自身の贅沢な生活の費用に直接あてられる。いや、むしろ、まず自分たちの生活費用にあてて、残りを支配者としての地位保存に必要な限りでの公的費用にまわすと言ったほうが正確かもしれない。

 江戸時代の幕府の予算では、大奥の奢侈な暮らしを維持するための費用がかなりの割合を占めていたそうだが、それは、私権的支配と公権的支配とが分離していないという前近代社会に固有の性格なのである(まあ、今でも税金にたかる人間はいますけど)。

 それに対し、労働者と生産手段の分離が完成した近代社会では、労働者は生きるためには、自分の持っている労働力を売って賃金を得る以外にない。なにも、奴隷のように鎖につないだり鞭で脅かしたりしなくても、文句を言うなら首にするぞとか、お前のところには仕事をまわさんぞとか言って脅すだけで、十分なのである。

 もちろん、働く人間のほうも鎖でつながれたり鞭でたたかれるのはいやだろうし、そんなんじゃ一生懸命働こうなんて意欲がわくはずもない。だから、そういう暴力的な支配というものは非常に効率が悪い。労働力の質も低いし、つねに監視が必要だから、かえって金もかかる。まことに、価値法則というものは、誰が考え出したというものでもないけれど、ありがたいものなのである。

 いわゆる帝国主義時代の本国と植民地の関係(現代では、「先進国」と「発展途上国」の関係になります)では、本国のほうが経済的に発展している。したがって、労働への需要は植民地の側よりも本国の側が強いのが一般的だ。いっぽう、植民地の側には、本国政府による暴力的な植民地政策によって土地を奪われた大量の人間が出現する(原始的蓄積ということ)。

 また、いうまでもなく植民地の人間の労働力は、本国の労働力よりもはるかに安い。もともと植民地の生活水準は低いし、本国の人間に比べて権利も少なく法的な保護も受けにくい。本国に連れてくれば、言葉も通じにくいし社会的に孤立してもいるから、文句を言ったり団結して反抗することもあまりないだろう。

 というわけで、安い労働力をなによりも欲しがる本国の側にとっては、植民地の人間というのは喉から手が出るほどに欲しい商品なのである。だから、なにも国がわざわざ直接に手を汚して「強制連行」なんかしなくても、経済法則によって必然的に植民地から本国に対しては、安い労働力としての人間が大量に送り出され流入するのである。いうまでもないことだが、同じような人間の移動でも、本国の人間が植民地に渡るのと、植民地の人間が本国にやってくるのとではまったく意味が違うことだ。

 おまけに、鹿島組がかかわった、戦争末期に岩手で起きた「花岡事件」を見ても分かるように、ちょっとした経済的利益さえあれば、お国に代わって、またお国のために、そういう人買いのような汚い仕事をやってくれる利にさとい人間はいくらでも見つかるのだ。アメリカでいまや大繁盛の戦争代行業だって、業種は多少違うにしても似たようなものだろう。


 かように、近代における政治と経済の分離を実現した価値法則というものは、まことにありがたいものなのである。なんといっても、おかげで首相も、国に直接の責任はありませんと堂々と胸を張ることができるのだから。

 しかし、直接国がかかわっていようとなかろうと、それが戦争遂行という当時の国策に関係していた限りでは、民間業者が勝手にやっていたことだなどと言ってすますのは、ただの言い訳と取られても仕方ないと思うのだ。


追記:
戦争末期の労働力が極端に逼迫した時点では、呼び方はどうであれ、行政の介入や強制の度合いが、それ以前よりも高くなったことは確かであり言うまでもないことです。

しかし、在日朝鮮人・韓国人の一世の大半が「強制連行」の被害者だというのが「左翼の常識」だなどという話は、そもそも一部の極端な言説だけを取り上げて、ことさらに「左翼の嘘」などというレッテルを貼るために作り上げられた、ためにする議論だと思います。

少なくとも、山辺健太郎の『日本統治下の朝鮮』(岩波新書)など、私がこれまで読んだ本で知っている限りでは、そんな誇張した話は「左翼の常識」であるどころか、聞いたこともありません(「比喩」としての言い方は除きます)。

相手の主張をわざと誇張し戯画化したうえで批判してみせて、その信用を落とすという手は昔からよくあることですし、まあ、なにをもって「常識」とするかといった話は、どうせ水掛け論にしかならないので、これ以上論じる気は別にありませんが。





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Last updated  2007.03.07 04:39:12
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