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カテゴリ:雑感
戦時下の日本のような情報が極端に制限されていたような時代にも、中江丑吉(兆民の息子)のように日本の敗戦を予測していた人はいた。そんなことは、具体的な戦況に関する知識がなくとも、そもそも日本とアメリカの文明と経済力の差を承知していた人にとってはそれこそ論理的必然的に導かれる結論だと言える。
「勝った!勝った!」という「大本営発表」のおかしさを見抜くのは、世界についての多少の常識と冷えた頭脳を持っていた人にとっては、たぶんそう難しいことではなかったと思う(というよりも、醒めた頭脳を持つということが当時は一番難しかったんでしょうけどね) だから、論理や理性の力を否定するつもりは全然ない。逆に、今のように情報が溢れている時代になると、今度は膨大な情報を取捨選択する必要も出てくる。いずれにしたって、自分の目や耳で直接確認できる情報なんてものの範囲はいつの時代にも限られているのだから、情報の真偽を判断するためには、最低限の論理的判断力は必要だ。 しかし、中江丑吉が日本の敗戦を予測できたのも、あらかじめ日本とアメリカの国力の絶対的な差という情報を前提として持っていたからだろう。前提となる情報すらなければ、いくら論理を振り回したって「真理」など手にはいるはずもない。 論理的な判断力は、「事実」と称する怪しげな情報をふるい落とすことはできる。 しかし、当たり前のことだが論理で事実を確定することなどはできない。 論理と経験的な事実とは全然次元が違う話である(これも当たり前のことですが)。 とりあえずは基本的な情報をできる限り集め、知識を収集すること。 「論理」を持ち出すのは、そのあとの話だろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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