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カテゴリ:雑感
虐殺された人の数をめぐる議論では、たいていの場合、加害者の主張のほうが被害者の主張よりも少ない。これは、死者の数を一つ一つ数えることのできないような場合には、よくあることだ。
かりに死亡者の数がある程度推測できる場合であっても、加害者のほうは「虐殺」の定義を問題にし、「戦闘中だった」とか「逃亡しようとしていたからだ」とかいろんな理由をを持ち出してきて、その数をなるだけ小さくしようとする。 それはたぶん「罪の意識」の裏返しに過ぎないと思うのだが、ここで「加害者と被害者の立場を超えた『客観的真理』」などと称するものは何を意味するのだろうか。 たとえば、加害者(殺す側)と被害者(殺される側)といった特定の立場を超えて通用する、「主観性を超えた社会的な意味での『客観性』」といった基準が、かりに加害者のほうですら認めざるを得ないということを意味するとすれば、どんな理屈を立てようとも、これは加害者の主張の方のみを全面的に受け入れることと同じにしかならない。 なぜなら、加害者と被害者が「立場を超えて」一致できるのは、加害者のほうが主張する虐殺についての「厳格」な定義であり、小さいほうの数に限定されるからだ。 それは確かに誰も争わないという意味では、「客観性」が担保された確実な真理とは言えるかもしれない。しかし、これは最低限の「真理」と言うべきものであって、断じて「立場を超えた客観的な真理」などではない。 小は大に含まれるが、大は小に含まれない。こんなことは、小学生でも分かる当たり前の理屈である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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