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カテゴリ:歴史その他
犠牲者の数の多少を政治的に利用することしか考えていない人間などは、そもそも論外である。政治的立場や思想的立場に関係なく、真面目な研究者たちの間にも、しばしば犠牲者の数について対立や論争が生じるのは事実だが、彼らはなにも数の多少を、採れた大根の数や釣れた魚の数のように競い合っているわけではあるまい。 もしも、10万人の犠牲者がいるとすれば、そこには固有の顔と固有の名前、固有の歴史を持った10万の人間がいるのである。犠牲者の数について論じることが、どうして虐殺という問題の本質を見失うことになるのだ。 事実を明らかにする努力を軽視することは、事実そのもの、すなわち殺された人々に敬意を払わぬことと同じではないか。事実を抜きにして 「本質」 を論じることなどそもそも無意味だし、できるはずもない。そういう論理のことを、昔から 「空理空論」 と言うのではないか。 具体的なデータに基づかずに、「蓋然性」 だの 「必然性」 だのといった抽象的な概念や論理だけで、問題が解決できるかのように言っているところを見ると、この人は歴史というものの本当の恐ろしさについて、何も分かっていないのではないだろうか。 そういう発想は 「文学的発想」 だと言うのなら、それはそれで構わない。それは、かえってその人が振り回す 「数学的発想」 というものが、歴史の前ではいかに無意味でありくだらないかを示しているだけではないのか。 そもそも、文献であれ証言であれ、資料の信憑性を検証する 「資料批判」 などは歴史研究のイロハである。怪しげな資料を鵜呑みにする研究者などは、ただの阿呆にすぎない。そんなところで 「数学系」 などという言葉を持ち出すことに、いったい何の意味があるのだろうか。 そういうことは、少なくとも 「歴史研究」 というものがどういうことかを学んでから言うべきことだろう。 無知は、それだけでは恥ではない。人にはそれぞれ専門分野というものがあるし、得手不得手があるのもしかたがない。しかし、そのことにいつまでも気付かないのであれば、単なる 「主観的善意」 だけでは済まされない問題だろう。 「左翼的な反権力の陣営」 だの 「反動勢力」 だのといった、いまやほとんど死語に近い陳腐な言葉を使うところに、すでにこの人の思考がいかにステレオタイプでしかないかが表れている。唯一絶対で一枚岩の 「前衛党」 無謬神話や 「社会主義」 神話が跋扈していた時代ならばともかく、いったい今の時代のどこに、「左翼的な反権力の陣営」 などというものが存在しているのだろうか。 そんなものは、それこそどこにでも 「左翼の陰謀」 なるものをかぎつけては騒ぎまわる、愚かな 「反動イデオローグ」 の妄想の中にしか存在していないのではないか。だいいち、歴史の研究者は、「反権力」 などという空疎なスローガンのために研究しているわけでもあるまい。 どう見ても得意とも思えぬ生煮えの政治論や運動論など、語らぬほうがましだろう。 30万人説のトリックの存在が見つけられるような資料を探したいなどとピントのずれたことを言う前に、いったいなにが問題になっているのか、頭を冷やしてじっくり考えてもらいたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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