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カテゴリ:雑感
コメント反映と回答ありましたので、書き換えます。
とりあえず、回答していただいたことには感謝します。 いささか、こちらも性急なことを言っちゃったかなというのは、反省 でも、軍人の論理で言えば、一人のゲリラを殺すために100人の村人を殺しても「虐殺」ではないと判断できる。 これだけは、少なくとも撤回して欲しかったと思います。 この理屈でいけば、ソンミ村の虐殺だって「客観的には虐殺だとは言えない」って話になるんじゃないかと思います。 戦争というものは、一連の戦闘行為の連鎖で成り立っているわけで、どちらかが完全に武装解除されるか撤退でもしない限り、1つの戦闘が終わって一定の地域を平定したからといって、兵士にとっての「命の危険」が消滅するわけではありません。 それは今のイラクを見れば分かることです。 日中戦争のときも、侵略者である日本軍に対する反感は当然一般の民衆の中にも強く存在していたことは簡単に想像できます。日清戦争のときのように、軍隊さえたたけば相手は降伏するだろうと思い込んでいたところに、当時の日本軍の認識の甘さがあり、その根底には中国のナショナリズムに対する過小評価、すなわち中国の民衆に対する蔑視があったのだろうと思います。 当時の日本軍が都市と都市どうしを結ぶ点と線しか支配できていなかったということは、よく言われます。農村を含む広大な面は、表面的には支配できていても、一皮剥けば、侵略者である日本軍に対する敵意が充満しており、日本軍がいちおう支配していた村の中にも国民党や共産党に対する情報提供者などが伏在していたこと、またちょっとでも隙を見せれば、いつどこから攻撃がしかけられるか分からない、戦闘員、非戦闘員の区別なく、まわり全員が敵に見えるというような状況は実際にあったのだろうと思います。 このように、侵略戦争が単純な正規軍と正規軍同士の戦いという局面だけでは語れない状況にまで発展した段階では、侵略者側による民衆への虐殺行為というものは、ほぼ必然的に発生します。それは、ゴヤの絵に描かれたナポレオンのスペイン戦争以来、多くの侵略戦争でごく普通に見られることです。 ですから、戦闘行為中と戦闘行為が終了した時点というふうに線を引いて「虐殺」と言えるか言えないかというように区別することは、それ自身意味がないと思います。そういう、どこの村にも現実的な敵や潜在的な敵が潜んでいる可能性があるというような状況では、極論すれば、すべての村を焼き払い、すべての民間人を殺害しなければ、侵略者の身の安全は最終的に図れないということにもなりかねないのではないかと思います。 したがって、敵の殲滅と味方の安全を第一義とする「軍人の論理」という立場からすれば、そういった行為も論理的必然性のある当然の行為であるから、「殺す側と殺される側の立場を超えて、客観的に虐殺であるかどうかは判断できない」ということになってしまうでしょう。 確かにそこまでは書かれてませんが、論理それ自体には限界はないのであり、いったん「軍人の論理」をなんらかの規範による外的制約なしに1つの立場として認めてしまえば、必然的にそういうことになるのではないのかということです。三浦さんふうに言えば、「論理的強制」ということです。 ベトナムで起きたソンミ村事件も、そういう状況の中で起きた「軍人の論理」の暴走の結果だと言えます。事件が発覚したら、アメリカ軍はいちおう虐殺事件として認めて、首謀者のカリー中尉はとりあえず処罰されたわけですが。 そういう「軍人の論理」の暴走を防ぐために、青狐さんが指摘したように、戦闘行為に関するルールとしての「戦時国際法」という国際的に承認された規範があるし、軍の規律というのもあります。確かに砲撃や爆弾の爆発に巻き込まれたり、流れ弾に当たったりというのは、「事故」みたいなものと言えなくはありませんが、「一人のゲリラを殺すために100人の村人を殺す」っていう「軍人の論理」というのは、どう見てもそれとは違う話ではないかと思います。 そもそも、戦闘の目的は敵の無力化であって、これは必ずしも敵の殺害を意味するものではありません。兵士が疑心暗鬼に陥った異常な心理的状況下では、そのようなことが起こりうることはすでに述べましたが、それはそもそも通常の戦闘行為から言っても外れているのであり、その様な論理の存在を主張すること自体が、ある意味では戦争に対するその人の見方の観念性を表しているように思います。 Apemanさんらとの論争で一番問題になっていたことは、南京事件の犠牲者が30万人いたのかいなかったのかということではなく、そういう恣意的で観念的な「定義」で論理を作って、自分の主張を正当化するところではなかったのかと思います。 また、そんな「軍人の論理」などということを言わなくても、ごく普通の殺人事件とかでも、怨恨だとか金が欲しかったとか、殺したほうにはそれなりの理屈があるものです。「盗人にも三分の理」という言葉がありますが、そういうときに、同じように殺した側の理屈を持ち出してきて、「立場を超えて客観的に犯罪であるかどうかは分からない」って言えますか。そんなこと言う裁判官がいたら、ただの阿呆だろうと思いますが。 犯罪には刑法という客観性を担保する規範があるように、戦時における正当な戦闘行為による殺害と不当な虐殺行為を区分する基準はちゃんとあります。ただ、現実的に個別の事象について判断することは確かに困難ですが、それとこれとは別の話というべきでしょう。 事実というのは、末梢的な事実を知りすぎていると、かえって本質が見えなくなって判断を誤るものです。 確かに、そういうこともあります。それは否定しません。しかし、今回問題になっていたことは、果たしてそのような「末梢的」な、言い換えれば瑣末な事実なのでしょうか。僕はそうは思いません。もちろん、南京事件について、あらゆる事実を知っていなければ論評できないなんてことはないでしょう。しかし、ある「歴史的事実」に関する1つの言説を「蓋然性がない」というように強く否定するには、それなりの事実的根拠が必要ではないかと思います。 以上、妄言多謝 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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