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カテゴリ:雑感
高崎経済大学の学生がゼミの教官にレポート提出を迫られて自殺したというニュースを聞いた。高崎経済大学といっても、古くは映画『圧殺の森』の舞台であったこととか、最近では八木英次とかいう「憲法学者」がいる程度のことしか知らないのだが、とにかく担当の教官はレポートを提出しなければ即留年だと言ったらしい。この教官については、以前にもいろいろ問題があったようだとの報道もあるが、詳しいことは分からない。
かつて4年制の大学を5年かけて卒業した者としては、そんなことで死ぬなよとしか言いようがないところだが、最近の大学の状況、あるいは学生の意識というものはどうなっているのだろうか。 言うまでもないことだが、大学の教官などといったって人格者ばかりが揃っているはずはないのである。知識の量や学者としての能力の高低と、対人関係の能力や学生に対する指導の能力とはなんの関係もないのである。だが、死んだ学生にとっては、この教官というのはある種絶対的な存在として映っていたのだろうか。そうでもなければ、このような自殺はちょっと理解しがたい気がする。 学生の自殺ということ自体は、ある意味では珍しいことではないともいえるだろう。それは、青春という精神的な不安定さに陥りやすい時期には、多くの者が一度は引き付けられる誘惑のようなものなのかもしれない。 古い話をすれば「不可解」という言葉を残して華厳の滝に身を投げた藤村操の例があるし、戦後ならば『二十歳のエチュード』を遺した原口統三、歌人の岸上大作や奥浩平、『二十歳の原点』を遺した高野悦子などの名前が浮かぶ。しかし、こういう例はいうまでもなくなんらかの形で名前が残ったごく少数の若者たちなのであって、身近な家族や友人達の記憶の中にしか跡を残していない死者はいつの時代にも無数にいるのだろうと思う。 そこには、たとえば失恋であったり、人間関係の軋轢であったり、あるいは社会的な運動の行き詰まりによる絶望感、将来への不安や文学的な挫折感であったりと、様々な個人的な理由があったのだろう。そして、そういう具体的な理由が存在していたのならば、それはそれで理解できると言えるかもしれない。 私個人の経験では、家の事情で中退した者とか、政治運動にのめりこんでどこへ行ったのかまるで分からなくなった者などもいたが、さいわい自殺した者はいなかったように思う。もっとも、ごく身近にそのような者がいたとしても、単に気付かなかっただけなのかもしれない。 現在の大学が「レジャーランド化」しているという話をよく聞く。昔に比べて現代の学生の生活が豊かになっていることは、平均として見る限りではそのとおりである。たしかにどこのキャンパスも昔に比べてきれいである。いや、むしろきれい過ぎると言ったほうがいいかもしれない。かつては学生の下宿といえば、三畳とか四畳半一間でトイレもなにも付いておらず、電化製品といってもせいぜいラジカセぐらいものだった。テレビを持っている者など珍しかったものだ。もっとも、学生の生活が豊かになった分、すねをかじられる親のほうは大変なのだが。 しかし、今の学生はほんとうにレジャーのような甘い気分で大学に通っているのだろうか。私自身も、晴れ着を着、目いっぱいおしゃれをして卒業式に臨む学生の姿などを見ると、ついつい「最近の若い者は~」などと口走りたくなるのだが、やっぱりそれは違うだろうと思う。いつの時代にも、若者はやはり悩み多き存在なのだと思う。 社会学者のデュルケームによれば、19世紀のヨーロッパでは軍人の自殺率が一般の市民に比べてはるかに高かったそうだ。『自殺論』の中で、彼は 「兵士は、わずかの不満、まったく他愛もない理由、許可の拒絶、叱責、不当な処罰、昇進の停止、名誉にかかわる問題、一時的な嫉妬の爆発、あるいはまったく単純に、他人の自殺の目撃やその風聞を耳にしたことなどの理由から自殺に走ってしまう」 と書いている。 そしてその理由は、「(軍隊は)緊密な大集団からなっていて、個人を強く掌握し、個人が独自の行動を取ることを許さない」 からであり、「そこでの規律には文句を言わずに、ときには納得がいかなくとも服従することが要求され」「個人主義とはほとんど相容れないような、知性の犠牲が必要になってくる」 からだということだ。 なにも、今の大学の全体が軍隊化しているなどと言っているわけではない。当然のことながら、自殺した学生の精神的な未熟さとか、担当していた教官の特殊な問題とかを指摘することは可能だろう。だから、個別の事例をそのまま一般化するつもりもない。しかし、今回の自殺の報道を聞いた限りでは、このデュルケームの記述となにか符合するところがあるような気がする。 立命館大学では、NTTと協力して電子透かし入り学生証を使った講義の出席管理システムの共同実験を開始するそうだ。また青森大学では、携帯電話を利用した「代返防止機能」つきの「教育支援システム」がすでに導入されているそうだ。 そこには、たぶん、高い授業料を払って子供らを大学に通わせている親たちからの無言の圧力と、少子化による大学の淘汰が予想される中での大学側の生き残り戦略みたいなものもあるのだろう。しかし、そんなことをしていったいなにになるのだろうか。必要なことは、学生達を小中学生のように子ども扱いすることでも、工場の労働者のように管理することでもなく、自ら学ぶこととその面白さを教えることではないのだろうか。 むろん、それが難しいことは分かっている。しかし、なにもただ一日中教室に座っておとなしく講義を聴くことだけが学生の本分ではないだろう。まったく、今の大学はなにを考えているのだろうと思ってしまう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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