カリスマというと、本来は人を引き付ける特異な魅力を持った政治指導者や宗教指導者を意味する言葉である。もっとも最近では、カリスマ美容師やカリスマ店員、カリスマ教師、さらにはカリスマ主婦なんてものも存在しているらしい。これはカリスマのインフレともいうべき現象であり、その結果、カリスマという言葉の価値もすっかり低下してしまったようである。
カリスマの語源はギリシア語で 「恵み」 などを意味するカリスという言葉だそうだが、言うまでもなく、この言葉が一般に広まったのは、かのウェーバーが用いた 「カリスマ的支配」 という言葉に始まる。ウェーバーは 『支配の諸類型』 など、その著作の何箇所かで、「合法的支配」 と 「伝統的支配」、「カリスマ的支配」 という三つの概念を 「正当的支配」 の純粋型として提出している。
ウェーバーによれば、「カリスマ的支配は、支配者たる個人と、その天与の資質、とりわけ呪術的能力・啓示や英雄性・精神や弁舌の力に対する情緒的帰依によって成立する。永遠に新たなる者・非日常的なるもの・未曾有なるものと、これらによって情緒的に魅了されることとが、この場合、人格的帰依の源泉なのである」 ということだ。
ウェーバーが 「カリスマ的支配」 の純粋な型としてあげているのは、「預言者、軍事的英雄、偉大なデマゴーグの支配」 であり、「支配団体は、宗団、従士団の形をとる情緒的共同体」 である。ここでは、シュワちゃんかランボーのような非凡な体力・能力や技量を持った軍事的指導者と、彼に信服し忠誠を誓い、場合によっては彼のために自分の命を捧げることも厭わない配下からなる戦士集団が最も典型的な例として考えられている。
だが、このようなカリスマの特異な能力と人格的影響力に基づくカリスマ的支配には、本来固有の難点がある。それは、カリスマの人格的影響力は、その性質上、物理的に狭小な範囲に留まらざるを得ないということと、そのようなカリスマの特異な能力は、なんらかの<証し>によって不断に実証されねばならないということだ。
もしもカリスマの能力が現実に対して無力であることが暴露されれば、彼は神の恩寵を失ったことになり、彼に対する信仰と帰依は一瞬にして崩壊してしまう。要するに、その瞬間に彼はカリスマの地位を滑り落ちてただの人になってしまうわけだ。
だから、カリスマ経営者は絶えず事業を拡大し倍々ゲームを演じ続け、カリスマ恋愛者(?)はつねに新たな恋愛を求め、カリスマ冒険家はつねに新たな冒険に挑戦し、カリスマ政治家はゴクーやケンシロウのように絶えず新たな敵を探し出しては、敵を倒す演技をしてみせなければならないのだ。
ウェーバーが提出した 「正当的支配」 に関する三つの概念は、「理念型」 という彼の独自の方法論に基づいて概念的に構成された純粋型である。したがって、実際の支配はこの三つの型がいろいろな形で絡み合って存在しているわけだが、このことは 「カリスマ的支配」 という概念についてはとくに当てはまるだろう。
武田泰淳は 『わが子キリスト』 という作品で、一般には裏切り者とされているユダをキリストのために 「奇跡」 のお膳立てをし、最後には 「復活」 という最大の奇跡を演出するために彼をローマに売った人物として描いている(太宰の 『駆け込み訴え』 でも、ユダはキリストの奇跡のお膳立てのために走り回る裏方として描かれていますが)。
これはむろん武田によるフィクションであるが、とくに宗教的カリスマ(要するに教祖様)の場合、ある宗教的な小集団がカリスマの人格が直接及ぶ範囲を越えて拡大していくには、そのような裏方である実務家集団の存在が不可欠なのである。
『魏志倭人伝』 によれば、かの邪馬台国の女王卑弥呼にも国政を補佐する弟がいたそうだが、ある程度の拡大に成功した現代の新興宗教団体についても同じことが言える。成長した教団の場合、神憑り的な素質を持った 「預言者的教祖」 と、教義のもっともらしい体系化や組織の運営・維持に携わる 「実務的組織者」 との分業というような同様の構造がたいていの場合存在している。
カリスマのカリスマ性は、そのような実務集団の手によって目的意識的に誇張され広く宣伝されることで本来の狭小な範囲を越えて広がり、しだいに様々な尾びれや胸びれがついていく。そして、最後には伝説の類にまでなってしまうこともある。
そのような手段は、かつては献身的な信徒による直接の伝道であり、せいぜい噂や風聞の類を振りまく程度であったが、現代ではテレビや出版など様々なマスメディアによって大量の宣伝を瞬時に行うことが可能である。そこでは、映像や様々なメディアを通すことによって、カリスマのイメージを操作することも可能であり、そのような手段によってカリスマのイメージはしだいに実体を離れ、「虚像」 として意識的無意識的に増幅されていく。
その結果生じるのが、作られたカリスマのカリスマ性はカリスマ本人より遠ければ遠いほど増すという奇妙な逆転現象なのである。近くで見れば、ただでかいだけで食い意地のはったひげぼうぼうの好色オヤジに過ぎない男が、さまざまなメディアや伝聞によってたまに遠くから見るだけの信者や、なんらかの悩みを抱え誰かの救いを求めている者らにとっては、悟りを得た現代の仏陀であり救世主のごとく見えるといった悲喜劇が生じることになる。
単なる傲慢な振る舞いや根拠のない断言、相手の心理や弱みに付け込んだ、「ずばり言うわよ」 などという相手を見透かしたような高圧的な態度や物言い、いい歳をして幼児っぽさの抜けない言動などは、本来社会の常識に反したものであり、普通は顰蹙を買うものである。
しかし、そのような人間がそれなりの実績や能力、観察力や洞察力、名声、評判(若くして芥川賞を受賞したとか)を持っている場合、救世主のような存在を望んでいるような人々からは、その言動が非常識であればあるほど、それはむしろ、その人が社会の規範や常識といった俗世のきまりを超越した神聖な存在であったり、すべての悩みを解決してくれる、他の誰よりも私のことを考え理解してくれる心強い助言者であったり、これまでのしがらみに捉われずに改革を断行できる強力な政治的指導者である証拠として受け取られる。
だから、そのようなカリスマたる彼や彼女は、自己の信者の帰依を絶えず繋ぎとめ、さらには新たな信者を獲得しようと望むならば、意識的であるか無意識的であるかに関わりなく、そういった子供じみたはったりや奇矯な振る舞い、暴言・放言の類をやめるわけにはいかないのだ。なぜなら、カリスマが普通の人間として振る舞うことは、即カリスマとしての死を意味するからだ。
だが、そのような 「カリスマ性」 とは、実体的であるか幻想的であるかを問わず、しょせん自己の現実的潜在的な支持者からなる閉じた集団の内部でしか通用しない。
作られたイメージとしての自己の 「カリスマ性」 に頼る指導者は、そのことによって外部との通路を自ら閉ざしているのであり、そのような指導者はいくら外部に向かって発言するようなポーズを取っていても、本質的には内向きの指導者でしかない。閉じた集団の中でいくら絶対的な権力を持つカリスマとして振舞っていても、外部から見ればただのピエロであり裸の王様にしか過ぎないだろう。
本来、民衆の中から生まれたはずの戦前戦後の多くの新興宗教団体が、当初こそ急速に勢力を伸ばしながらも、ことごとく一定のところで壁にぶつかり頓挫してしまうのもそこに一つの原因がある。そのような作られた 「カリスマ性」 は、しょせん心理的にそれを受け入れる用意のある人々の間にしか広まりえないからだ。
創成期には一種の反体制的な戦闘性を見せていた宗教集団が、いつしか守りに入るとともに、もとは敵対関係にあった既成支配層にすりよって生き残りを図るようになってしまっているのもそのためだろう。
マルクスの 『資本論』 には、「この人が王であるのは、ただ、他の人びとが彼に対して臣下としてふるまうからでしかない」 という言葉があるが、この言葉は、このような 「カリスマ的支配」 にこそ最もよく当てはまるだろう。 つまり、ある個人がカリスマであるのは、ただ、他の者が彼または彼女をカリスマとして認め、その信者として振る舞うからでしかないと。