|
カテゴリ:雑感
またまた古い話で恐縮だが(というより、正直に言うと、最近の話題には息切れがして付いていけないだけなのであるが)、吉本隆明が単独で発行していた雑誌『試行』(1973.9)に、ある学生の遺書が掲載されたことがある。「情況への発言(2) ― 若い世代のある遺文」と題されたその記事によれば、自殺した学生が吉本に宛てて書き残した文章を、遺族から送られたということだ。
わたしは、過去に、この種の未知の読者の、正常でない死に方や生き方に、幾度も立ち会ってきた。このような場合、どこまで、どのように介入すべきかを、わたしは知らない。わたしが、自身に漠然と下している判断では、わたしの書くもののどこかに、本来ならばわたし自身が自殺や狂気にいたるべき要素が潜在していることの投影ではないのかということである。 わたしの信頼している詩人の意見では <そうではない、きみの書くものに救済を求めたものが、途中ではぐらかされた感じを持つために自殺や狂気や反発に終わるのだ> ということである。 わたしのからめてからの辛らつな批判者によれば <あなたは、どんなに優しくしてくれたって、家事や炊事をやってくれたって、まったく手のかからない男だったって、本当は、たいていのことは、どうでもいいと思っているのよ。…… わたしだって自殺したいところだけど、他人が見れば、どうしたって、わたしが悪いということになるのが、しゃくだからねえ> ということである。 『試行』No.39より 当時山口大学の4年生だったという学生の遺書の前に付けた、冒頭の<註>で、吉本は上のようなことを書いている。また、別の著書では、自殺した学生の家族から 「あんたの書いたものなんか読まないで、大学でちゃんと勉強していれば、息子はこんなことにならなかったはずだ」 といったことを言われたというようなことも書いている。 吉本隆明といえば、60-70年代には一種の「教祖」的存在であり、<共同幻想>だの<対幻想>だのといった難解な言葉を濫発する学生は、日本中の大学にわんさといたものだ。だが、結果的にカリスマの座に座らされたことは、けっして彼自身が意図していたことでも、望んでいたことでもなかっただろう。 とはいえ、文学や思想といった表現を公にして他人に影響を与えるということには、そのような危険がつねに潜んでいるというべきだ。吉本は、たとえ自分が意図しなかったこととはいえ、少なくともそのような<事実>をきちんと受け止めているように思える。 翻って現代のネットを覘いてみると、かつての吉本のような「大教祖」のかわりに、あちらこちらに中小カリスマが乱立しているように見える。 ある者は 「アポロは月には行かなかった」 と言い、またある者は 「従軍慰安婦も強制連行も存在しなかった」 と言う。ついこないだ前まで、『終わりなき日常を生きろ』 などと言っていたはずのある社会学者などは、自分自身がそのことにとうとう辛抱しきれなくなったのか、「真正右翼」たることを標榜し「亜細亜主義の再評価」などといった空疎なスローガンを掲げている。 (近代史についての彼の知識が一知半解にすぎないことは、いくらでも指摘できるが、社会的なレベルでの<連帯>の思想が国家レベルに格上げされたときに、必然的に生じるねじれを考察しない「亜細亜主義の再評価」など、まったく無意味なのだ) このような風景は、リオタールだか誰だかが言った「大きな物語」が終焉したのちも、なんらかの物語と明快な解答を求める欲求が依然として存在しているということの証なのだろう。ネットの普及は、私だけの固有のカリスマを求める欲求とカリスマになりたがる者の欲求との直結を可能にしたかのようである。 しかし、彼らカリスマが提出している物語は、一見すると様々に違っているように見えても、よく見るとすべて同じである。そこで言われていることは、洗練度の多少の差や、理屈や用語の違いはあっても、多かれ少なかれ、くだらぬ「陰謀史観」にすぎない。 ある者はフリーメーソンやユダヤ資本を、またある者は朝日新聞やリベラル派、「左翼」だとかを悪者にする。そして、「君たちは今まで騙されてきたのだ。真相はこうなんだ。これこそが正しい道なのだ!」 というふうに論じるのが、彼ら中小カリスマに共通する手口である。その違いは、せいぜい誰を悪者にするかということと、それに対する処方箋の違いに過ぎない。 彼らは、あらゆる問題に対して「正解」を提示することを自己の職務と心得ているようだ。それによって、現代社会の中で明確な「正解」を求める者の欲求は充足され、めでたくもカリスマの誕生となるわけだ。だが、そこに欠落しているのは、吉本が心ならずも引き受けざるを得なかったような、言葉によって他者に影響を及ぼすことに対する畏れの感覚である。 さて、ここに内田樹という人がいる。彼もまた非常に人気のある著作家であり、ご本人によれば、今年はなんと大学入試で出題された著作家の二位に入ったらしい。内田という人は、かのレヴィナスのお弟子さんということで、フェミニストからはしばしば顰蹙をかうこともあるようだが、今は彼の思想については論じない(というか、まともに著書を読んだことがないので語れません)。 しかし、この人のブログを読んだ限りでは、内田という人は「正論」を語らぬことを自らの倫理としているように思える。それは、言いかえれば啓蒙をしない、ということでもある。そのことは、もちろん彼自身の思想とどこかで深くつながっているはずだが、また、カリスマを求める欲望を拒否すると同時に、カリスマに祀り上げられることを回避しようとする、彼の巧妙な戦略なのかもしれない(もっとも、残念なことに、そういう戦略もつねに成功するとは限らないわけだが)。 教育や若者の問題など、様々な社会問題に対する彼の発言に対しては、いろいろな反発や批判もあるようだ。こじつけだとか、ただの思いつきに過ぎぬといった批判も、ときには当たってなくはないようにも見える。しかし、この人については、そのような個々の言説の内容よりも、むしろ思想の構えとか流儀とでもいうべきものの方に魅力を感じる。 そもそも、個々の言説ということで言えば、お釈迦様だってキリスト様だって間違えることはあるものだ。また、「正しい読み方」か「誤った読み方」かというようなことにも、それほど意味があるとは思えない。なぜなら、彼の文章は、読者に対してなにかを教えることを目的にしているのではなく、考えさせることを目的にしているように思えるからだ。単なる事実や知識、理論だけならば、今の時代、その気になりさえすれば、どこからでも得ることができるものだ。 彼の文章がユーモアに溢れているのは、単に生来の気質なのかもしれない。しかし、けっして「正論」を言わないというその態度から聞こえてくるのは、なによりも 「もっともっと自分で考えろ」 というメッセージである。それぞれの立場の違いはあっても、「これこそが正解だ」 といった断定的語りをする論客が多い中で、こういう人の存在はきわめて貴重のように思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[雑感] カテゴリの最新記事
|