|
カテゴリ:マルクス
最近、renqing という方が開設されている 「本に溺れたい」 というブログで、ちょっとしたやりとりをしました。
これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造が立ち、そしてこの土台に一定の社会的諸意識形態が対応する。 これは、一般に 「唯物史観の定式」 と呼ばれているものであり、マルクスはこの定式について、「私にとって明らかとなった、そしてひとたび自分のものになってからは私の研究にとって導きの糸として役立った一般的結論」 というふうに述べています。 このマルクスの 「導きの糸」 という言葉は、ウェーバーが 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 の中で、「文化と歴史の唯心論的な因果的説明を定立するつもりなど、私にはもちろんない」 と言い、同書での研究を 「研究の準備作業」 と呼んだこととも照応しているように思います。 さて、このマルクスの唯物史観の定式についてですが、まず、この定式は抽象性のレベルが非常に高いということに注意する必要があると思います。言い換えれば、ここで提出された 「実在的土台」 とか 「上部構造」、「社会的諸意識形態」 といった概念を、そのまま現実の社会や歴史についての説明に持ち込むことはできないのではないかということです。 もう少し詳しく説明します。 マルクスは、この定式で社会の構成を、「実在的土台」 と 「上部構造」、「社会的諸意識形態」 という三つの概念で説明しています。しかし、このような概念的構成は、いうまでもなく理論的抽象によって得られたものです。現実の社会は、必ずしもそのような三つの概念に照応して成立し存続しているわけではありません。 現実に存在している社会は、つねに総体としての1つの社会です。現実の社会というものは、たとえばコンピュータの回路のように、「実在的土台」 と 「上部構造」、「社会的諸意識形態」 という三つの互いに独立したモジュールで構成されているわけではありません。 したがって、このマルクスの定式から、現実の社会がそのように三層構造を成しているというふうに理解したり、またマルクスが現実の社会そのものをそのようなものとみなしていたと考えるのは誤りではないかと思います。 マルクス自身が 「導きの糸」 と言ったように、これは具体的な社会・歴史の研究を進めていく上での手掛かりであり、社会についての彼の原則的な見方を分かりやすく図式化したものに過ぎないと言った方がいいと思います。 マルクスが 「実在的土台」 と呼んだ 「生産諸関係」 にしても、具体的に見るなら、人間の様々な意思や意識と無関係にそれ自体で存在し運動しているわけではありません。たとえば、「資本論」 のどこかに、蜂による精巧な巣作りと人間の目的意識的な労働とを比較した一節がありますが、協業と分業による人間の労働は、それ自体、指示・命令など、人間同士の様々な意思の関係を必要とします。そして、そのような意思関係は、必要に応じて社会的規範として 「客観化」 されることになります。 人間はただの機械でもロボットでもないのですから、このようなことは当然のことでしょう。ましてや、社会的分業が高度に発達した資本主義社会では、法律のような一般的規制から就業規則のような個別的なものまで、様々な社会的規範による規制や統御が存在しなければ、生産過程それ自体が成立・存続しえないことは明らかだと思います。 つまり、現実の社会においては、「実在的土台」 や 「上部構造」、「社会的諸意識形態」 といったものが、マルクスが定式で描いたようにきちんと三つに分かれて存在しているわけではないということです。現実の社会というものは、もっと複雑なものであり、様々な関係が相互に入り組みながら成立し存在しています。 現実の諸関係は、これは 「土台」であり、これは 「上部構造」である、というふうに明確に分類できるようなものではありません。かつて、三浦つとむという人が、この定式について 「アナロジー」 という言葉を使ったことがありますが、その意味はこういうことなのだろうと思います(どこでだったか、忘れましたが)。 要するに、このような概念は、社会を高度に抽象した結果、得られたものにすぎません。したがって、そのような抽象的概念やその関係を現実の具体的な社会の記述にそのまま持ち込めば、いろいろな問題が生じることは、ある意味当然だろうと思います。 しかし、現実の社会的過程を見ても、社会の発展に応じて実状に合わなくなった法律は改正・廃止され、逆に新たな必要性に応じて、新たな法律が制定されるというような事実は、日々、生起しています。 ですから、そのような社会総体をそのままの現実としてではなく、理論的に反省し抽象し、あるいは概括的に見た限りでは、まず 「実在的土台」 が成立し、それに一定の 「法律的および政治的上部構造」 と 「社会的諸意識形態」 が対応するという定式の表現は十分に首肯しうるものと思います。 そして、そのような見方は、『ドイツ・イデオロギー』 での 「われわれが出発点としてとるところの諸前提は……現実的諸個人、彼らの行動、および彼らの物質的生活諸条件である」 という、若き日のマルクスとエンゲルスの宣言以来、一貫したものであると言えます。 エンゲルスは晩年のJ.ブロッホに宛てた手紙(1890)の中で、「唯物史観によれば、歴史における究極の規定的要因は現実の生活の生産と再生産である。それ以上のことはマルクスも私も今までに主張したことはない。……しかし上部構造のさまざまな諸要因も……歴史的な諸闘争の経過に作用を及ぼすのであって……」 というように述べて、「土台」と 「上部構造」 を含めた 「すべての要因の交互作用」 ということを指摘しています。 この説明は、必ずしも間違いというわけではないでしょうが、確かにいささか簡略に過ぎるように思います。とくに、「終局的には経済的運動が必然的なものとして自己を貫徹する」 といった言い方をしてしまえば、なんだかんだ言っても、結局のところ、経済決定論じゃないの、というような批判が出てくるのは仕方ないかもしれません。 ただし、エンゲルスを弁護するなら、ここで彼が言っている「経済的運動」とは人間の具体的な生活過程全体を指しているのであって、近代的な自立したシステムとしての「経済的過程」といった狭いものではないというべきでしょう。 現実の歴史について論じる場合、マルクスは 『資本主義的生産に先行する諸形態』 にも見られるように、前近代社会の基礎をなす共同体の構造など、様々な要因を追求しており、エンゲルスのように問題を単純化してはいません。『フランスにおける階級闘争』 などにしてもそうでしょう。言うまでもないことですが、このような具体的な歴史記述は、「唯物史観の定式」 なるものを現実に対して応用すれば出来上がる、といったものではありません。 私見では、マルクスの唯物史観についての様々な教条的な理解や批判の多くは、ここまで述べたような、理論的抽象によって成立した定式と現実の社会や歴史的過程との抽象度の差異の無視や、その無自覚な混同から生じているのではないかと思います。 マルクスが 『経済学批判』 で披露した自らの定式を 「導きの糸」 というように呼んだのも、そういう意味ではなかったのかと思います。 さて、トラックバックうまくいくかな お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[マルクス] カテゴリの最新記事
|