対馬斉という人が書いた 『人間であるという運命』(作品社) という本がある。
といっても、たぶんこの人の名前とこの本の名前を聞いて、ああ、あの人のあの本か、とぴんとくる人は少ないと思う。なにしろ、この人が生前に出した本はこの一冊だけで、しかもこの本を出した直後に亡くなっているのだから。
この本が出版されたのは2000年のことであるが、この人がデビューしたのはずいぶん前のことだ。手元にあるこの本の帯には、「柄谷行人氏 推薦!」 という文字が躍っているが、実は柄谷と対馬という人には海よりもふかーい因縁があるのである。
というのは、柄谷と対馬斉とは、1966年と67年の 『東大新聞』 の五月祭賞に、連続してともに佳作に入選した経歴を持っているからなのだが、柄谷は前掲書の帯の推薦文で 「私は、この年長の友 (対馬のほうが11歳上である) から、マルクスの存在論的読み方、そして、『学位論文』 の読み方に関して、深い影響を受けた。それは今も、私の中に活きている」 と書いている。
「マルクスの存在思想」 という副題がつけられた、この本の内容を簡単にまとめるとすれば、物質的な世界や客観的な関係によって制約された存在としての人間、ということになるだろう。むろん、このような表現自体は、とくに新しいものではない。しかし、そこにこめられた対馬の思想には、硬直化しすでに無効を宣言された多くのマルクス理解に再考を迫る独自のものがある。
対馬は、「およそ革命には受動的な要素が、物質的な基礎が必要なのである」(ヘーゲル法哲学批判序説) とか、「思想が全社会を革命化すると人々はいう。しかしこれはただ、旧社会の内部に新しい社会の要素がすでに形成されており、旧社会の生活諸関係の崩壊と歩調を合わせて旧社会の思想の崩壊が行われているということを、いいあらわしているにすぎない」(共産党宣言) といった文を引用して、次のように言う。
人間の現実の生活には、生き方には、思い通りにならないなにかがあり、その意識ではどうしようもない 「なにものか」 が、案外人間を現実に動かしているのではないかという、それは思い通りにならない意思行為への懐疑である。……
普通このような 「人間であるという運命」 へのこだわり、目的意識的な活動への懐疑、それは後代のマルクス主義にあってはもとより、マルクスその人の思想としても、それこそ縁もゆかりもないもののように思われている。
だがマルクスの文面にいたるところにみられる 「物質的な」 ものへのこだわり、「思考から区別された存在、精神の自発性から区別された自然のエネルギー、悟性から区別された人間的本質力、能動から区別された受動」 へのこだわり、それらは、いわゆる運命論、宿命論としてはたして一概に無視しうるであろうか。
対馬はこのような立場から、エンゲルスの 『空想から科学へ』 に始まり、レーニン、スターリンから毛沢東の 『実践論』 へと受け継がれ純化されてきた、「目的意識的実践」 とか 「理論と実践の統一」 などというおなじみの論理に対して根底的な批判を提起している。
たとえば、毛沢東は 『実践論』 の中で、「マルクス主義の哲学が非常に重要に考える問題は、客観的世界の法則性を理解することによって世界を解釈することができるということではなく、この客観的法則性の認識によって能動的に世界を改造することである」 と書いている。
このような人間の実践の 「能動性」 を極度に主張する、ひどく楽観的な論理に対して対馬が対置しているのは、「人間は自然的な肉体的な感性的な対象的な存在として、動物や植物がそうであるように、一つの受苦している、制約を受け制限されている存在である」 という 『経哲草稿』 の中のマルクスの言葉である。
マルクスによれば、人間とはつねになんらかの飢えをかかえ、客観的な対象や関係によって制約されている存在なのであり、人間の主体的能動性とは、そのような制約によってこそ生まれるのである。 人間が自己の生存にとって自然や他者といった対象を必要とする存在であるということは、人間がそのような欲求、すなわち欠乏をつねに抱えているということと同義である。いわゆる史的唯物論の根底にあるのは、そのような人間の被制約性についての理解なのだ。
であれば、本来の実践とは、そのような対象、すなわち具体的な歴史的世界による制約のもとで必然的に生まれる人間の行為を意味するものであり、そのような必然性によって迫られた行為としての 「実践」 に比べれば、理論的な正しさと主体的な決意にのみ基づく 「実践」 など、歴史においてはなにほどの役割もないというべきだろう。
実際、ロシア革命にしても中国革命にしても、革命の勃発は、なによりもその当時のそれぞれの社会が置かれていた具体的な状況、すなわち一方においてはツアーリズムの腐敗、また一方においては日本を始めとする列強諸国の侵略という状況の結果なのであって、イデオロギーや理論、ましてやレーニンや毛沢東らが果たした役割など、それに比べればはるかに限られたものにすぎない。
この本に収められ、その題名ともなっている 「人間であるという運命」 という論文を、対馬は次のような言葉で結んでいる。
マルクスのいう階級闘争の歴史、その歴史をつくりあげた者こそ、おそらく、生きるために、その反逆が敗北をもたらそうがもたらすまいが、生きる必然として社会的に反逆へと追い込まれた、実践の宿命を負った無数の人々ではなかっただろうか。
この人々へのかかわりをこそ思想としている者にとって、その実践は、生涯その人を離れぬ宿命である。すでに述べたように経済学批判のマルクスの思想が、なによりもそれを直裁に示している。