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カテゴリ:マルクス
関曠野という人がいる。以前から名前だけは知っていたのだが、きちんと著書を読んだことはなかった。で、とりあえず 『歴史の学び方について』 という薄い本を読んでみたのだが、これはなんというか、問題意識は分からぬではないにしても・・・・・・ため息が出た。
関のマルクス批判は、マルクスの思想は 「経済決定論」 であるということであり、さらにつきつめれば 「生物的決定論」 だということになるようだ。 たとえば、彼はこんなことを書いている。 類としての人間の物質代謝から説き起こして生産力の発展を歴史の唯一の推進力とするマルクスの理論の極度に生物学的な性格については、今さら指摘するまでもない。・・・ 『歴史の学び方について』P.144 および P.147 これはごく薄い本であるから詳しい論証がされていないのはしかたないとしても、フランス啓蒙思想とその生理学的唯物論の流れをくむコントと、ドイツ観念論からフォイエルバッハの感覚的唯物論にいたる流れの延長にあるマルクスを同列に並べるとは、思想史の常識を無視したずいぶん無茶な話である。 とりあえず、まず指摘すれば、マルクスが指摘した人間と自然の物質代謝とは、単純な生物的欲求のレベルの話ではない。たしかに人間はなにも食わなければ死んでしまうわけだから、生物としての欲求が根底にあることは 「今さら指摘するまでもない。」 しかし、人間の欲求はたとえ食欲のような生理的欲求に根ざす場合であっても、極度の飢餓状態にでもない限り、単なる生物的欲求に還元されはしない。もし、人間が牛や馬のように、そのへんにある草などを取って食べるだけで満足できるのであれば、絢爛豪華な北京料理やフランス料理など生れているはずもない (食べたことないけど)。いや、そもそも、生産力の発達も文明の発展もありえないことだ。 マルクスがいう生産力というものは、けっして自動的に発展していく魔法のようなものではない。その根底にあるのは、人間の人間としての欲求である。だから唯物史観の基底をなしているのは、単なる生物としての人間ではなく、人間としての人間、言い換えればすでに人間となっている人間なのだ。 たとえば 『経哲草稿』 には、次のような文がある。 人間的本質が対象的に展開された富をとおしてはじめて、主体的人間的な感性の富、音楽的な耳や形態の美に対する目や、ようするに人間的享受を可能とするもろもろの感覚、すなわち人間的な本質的諸力として確証されるもろもろの感覚が、はじめて発達し、はじめて産出されるのである。 これが、どうして 「人間を生物に還元する生物学的決定論」 などということになるのだろう。関の 「マルクス批判」 は的外れどころか、まったくあさっての方を向いている。初期マルクスの草稿の存在が知られていなかった時代ならばともかく、今の時代にこんなレベルでは全然話にならない。 そもそも、人間は社会的存在であるというマルクスの規定での 「社会」 とは、高崎山のサルの群れのような、個体が直接に結合した実体的集団のことではない。いささか面倒だが、『経哲草稿』 からもう一箇所引用したい。 人はたとえ社会への参加をすべて拒んで自分の部屋や家の中に引きこもっていても、他人が制作したテレビ番組を見、CDを聞き、ゲームやネットにふけり、コンビにだとかで売っている食品に依存している限り、やはり 「社会的存在」 なのである。マルクスが言っているのはそういう意味である。社会的活動と社会的享受はけっして、もっぱらただ、ある直接的に共同的な活動と直接に共同的な享受という形態でのみ存在しているわけではない。・・・ であるから、このマルクスの規定は、個人を抹殺する集団主義や全体主義とはなんの関係もありゃしないのである。マルクスは人間は社会的存在だから、すべての活動を直接に共同化=集団化すべしなどとは一言も言っていないのだ (もっとも、そのようなお馬鹿を言っていた 「マルクス主義者」 がいたこと自体は否定しないが)。 ところで、関の処女作である 『プラトンと資本主義』 にはこんな一節がある。 それでも、経済の面から見るならば、この時代はギリシアにおける鉄器時代の始まりを告げた。オリエントから伝来した鉄器の技術は徐々に普及し、ギリシア人の日常生活を変えていった。 執筆の順序がいくら逆とはいえ、マルクスを 「経済決定論」 だなどとさんざん批判しておいて、これはないだろう。これは、どう見てもマルクスの唯物史観のパクリではないか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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