暑い、とにかく暑い。 なんでこんなに暑いのだろう。
そういえば昔、井上陽水が 「かんかん照り」 なんて歌を歌っていたっけ。
「帽子を忘れた子供が道で、直射日光にやられて死んだ」 なんて、一瞬聞いている者をどきっとさせるような言葉を歌の中にさりげなく挿入するところにも、この人の斬新な感覚というか、只者ならざるところが表れていたものだ。
で、無理やりこじつけると、たぶん、この異常な暑さは現代が 「乱世」 であることの証拠なのだろう。
堀田善衛の 『時代と人間』 という薄い本は、もともと 「NHK 人間大学」 のテキストだったそうだが、なぜかいまはスタジオジブリから出ている。しかも、解説を高橋源一郎が書いているのだから、これは面白くないはずがない。
堀田善衛がこの本でとり上げているのは、鴨長明、藤原定家、ダンテによって 『神曲』 でぼろくそに書かれたというローマ法王ボニファティウス、モンテーニュ、そしてゴヤの五人である。いずれも、日本と西洋の中世に生きた人物である。その最初の放送分のテキストで、堀田は次のように言っている。
乱世というとすぐに人は中世時代のことを思いつくようであるが、しかし、私にとって現代という時代は非常な乱世ではないかと思われたきっかけは、1945年3月10日の東京大空襲のときであった。あのときは、ご存知の方も少なからぬだろうと思うが、東京の下町を中心にして大半が焼けてしまった。そして、十万人を超す人が亡くなった。・・・
その空襲の火、家がどんどん燃える火を見ていて、私にひらめくようにして襲ってきたものがあった。それは鴨長明の 『方丈記』 の中の火事の描写である。
「火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪えず、吹ききられたる炎、飛ぶがごとくして一ニ町を越えつつ移りゆく。その中の人、現し心あらむや」
『方丈記』 といえば 「ゆく川の流れはたえずして」 という書き出しで有名な、中世の無常思想が表明された代表作ということになっている。しかし、堀田が描いている長明の姿は、「無常感」 などという悟りすましたような言葉から想像されるものとはかなり違っている。
堀田によれば、晩年の長明は家も官職もいっさいを捨て、牛車に組立式の家(ようするにテントみたいなもの)を積んで移動しながら生活していたのだそうだ。つまり、いまふうに言えば、りっぱなホームレスである。
一ヶ所に定住することなく、世の中のあらゆるものを見てやろうと、やせた体に目玉だけをぎょろつかせながら、飢えた人の死体が転がる京の町中はもちろん、清盛が都を移した福原、はては鎌倉にまで出かけるという、冷徹な目を持った 「狂せる」 記録者であったのだという。
「貴族社会」 から 「武家社会」 へというような変化は後世の解釈であるが、地震や大火、飢饉、血なまぐさい戦乱があいつぐ時代の中で生きていたこの人にとっても、自分が生きている今の時代こそがまさに乱世であるという強烈な自覚があったのだろう。堀田が言うような、「なんでも見てやろう」 「見たものを記録しておこう」 という彼の行為は、たぶん、そのような自覚から生れたものなのだろう。
堀田善衛が黒い函に収められた 『ゴヤ』 4部作を刊行したのは、ちょうど学生のころだった。高校時代に 『広場の孤独』 や 『歯車』 などは読んでいたが、その彼がなんで何百年も前の人を小説にするのか、当時はまるで理解できず、書店に並んでいるのを手にとって、ちょこっと覘いてみようという気すら持たなかったものだ。
ようするに、当時の自分は、アクチュアルなものとは今のこの時代以外にあるはずはないと思い込んでいた、ただのガキであったということだ。まあ、それもしかたがないとは思うけども。
ゴヤという画家は、フランス革命とナポレオン戦争によって 「国民国家」 が誕生し、その結果として、二度の世界戦争へいきつく、国家と国民のすべてを巻き込んだ戦争の無気味な 「絶対化」 が始った時代に生きた人物である。
また、膨大な 『エセー』(文庫で6冊!)を残したモンテーニュは、ローマ教会とプロテスタント諸派、さらにその背後にある王や貴族、市民、農民らの対立を伴った苛烈な宗教戦争が、ヨーロッパ中に吹き荒れた時代に生きた人物である。
堀田善衛の関心は、そのころから乱世を生き、乱世を見つめた人に向かっていたということなのだろう。それがようやく分かったのは、筑摩から出ていた 『聖者の行進』 という、やはり日本と西洋の中世に取材した短編集を、数年前にたまたま読んだときである。
この本に寄せられた娘さんの文によれば、堀田善衛という人はどんなときも毎日新聞をすみからすみまで読み、テレビのニュースも放送終了まで飽きることなく見続けていたのだという。彼にとって、中世という乱世と現代とは、太い線で一本につながっていたのだろう。
13回分の放送テキストで構成されたこの薄い本は、次のような言葉で締めくくられている。
人間の存在は、たとえば巨大な曼荼羅の図絵のように、未来をも含む歴史によって包み込まれていると思う。
よく、「歴史は繰り返さず」 というが、このことばにはもう一つ、「歴史は繰り返さず、人これを繰り返す」 ということばがくっついていたはずである。
「歴史は繰り返さず」 というこの古い箴言は、けっして 「歴史は繰り返す」 ということを否定しているのではない。
この箴言が意味しているのは、歴史は人間の意思や行為と別個にそれ自体で繰り返すものではなく、人間の愚かな行為の結果として繰り返されるのだということである。
堀田善衛はすでに9年前に亡くなっているが、それを知ったのもつい何年か前のことであった。