|
カテゴリ:雑感
「嵐の前の静けさ」 とはよく言ったもので、台風が近づきつつあるが一気に風雨が増すわけではない。昨夜からときおり雨かぜの勢いがましはするものの、いまはなぜか小康状態である。
雨がやみ、樹々の枝をさわさわと揺さぶる風の音が聞こえなくなると、とたんにあちこちでセミがシャーシャーと鳴きだす。そういえば、まだ夏休みにもなっていない。子供は二人ともすでに巣立ってしまったので、そういうことともすっかり縁がなくなってしまった。 昔は台風のことを 「野分け」 と言ったそうで、たしか 「枕草子」 にも野分けの話があったはずだ。そう思って調べてみたらこんな言葉を見つけた。 「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ。立蔀(たてじとみ)、透垣(すいがき)などのみだれたるに、前裁どもいと心くるしげなり」 いっぽう、兼好法師のほうはこんなふうに書いている。 「また、野分の朝こそをかしけれ。言ひつづくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じこと、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず」 おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざなり、とはまさにそのとおりである。こんなことを言ったら、笑われるんじゃないかとか、顰蹙をかうんじゃないかなどと気にしていてばかりでは、精神衛生上よろしくない。ただし、兼好さんも言っているように、それだけでは人に見せるようなものにはならない。 言うまでもないことだが、その頃は今のような天気予報などありはしなかった。それでも、暦がその季節に近づくと、そろそろ野分けの季節じゃわい、などと村の年寄りだとかが言いはじめ、しだいに草木が風になびき出し、鳥の姿が消え、雨風が不気味に強まったり弱まったりを繰り返し始めると、いよいよおいでなさったということで、あとは家の中でただ息をひそめて、風雨が行き過ぎるのを待っていたのだろうか。 嵐が近づく予感というものには、みょうに人の気分を高揚させるものがある。風が強まると、夜中でもなぜか外に出て風に吹かれたくなってくる。雨がしゃあしゃあと降り出すと、意味もなく濡れてはしゃいでみたくなったりする。 嵐の前には静けさがくる。矢を遠くへ飛ばすには、弓を引き絞らねばならない。ボールを遠くへ投げるには、体をうしろへそらさなければならない。 高く遠くへ跳ぶためには、いったん後ろへ下がり、息をととのえてしずめなければならない。 野分の夜半こそ愉しけれ。そは懷しく寂しきゆふぐれの つかれごころに早く寢入りしひとの眠を、 空しく明くるみづ色の朝につづかせぬため 木々の歡聲とすべての窓の性急なるノックもてよび覺ます。 伊東静雄 「野分に寄す」 より お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[雑感] カテゴリの最新記事
|