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カテゴリ:雑感
前に引用した衣更着信という人の 「芸術」 という詩について、吉本隆明はこんなことを書いている。
この文章が書かれたのは、60年安保闘争から1年後のことである。上で引用した箇所の少しあとで、彼は 「先ごろ、私は政暴法闘争のさなかに、『昼寝をしろ』 というスローガンを掲げたというので、政治屋志望の学生とか、政治評論家とかのひんしゅくをかった」 と書いている。 「昼寝をしろ」 というスローガンを掲げた、というのは、たぶんその少し前に彼が書いた 「睡眠の季節」 という短い文章のことを指していると思われるが、いずれにしろ、彼がそこで言いたかったのは、「××闘争」 から 「××闘争」 へというふうに、現実をただ追いかけて次から次へと 「スローガン」 を掲げていくことよりも、敗北した戦いの意味を腰をすえて考えることのほうが大事だ、というようなことだったのだろう。 吉本がここで芸術の本質としてあげた 「ディスコミュニケーション」 ということは、たぶん人間の表現というものの本質にかかわっている。人間の言葉は、単純にあることを伝えるためにだけあるわけではない。言葉はときには、あることを隠すために使われることもあれば、その反対のことを伝えるために使われることもある。 平川さんが、三波春夫の 「ちゃんちきおけさ」 について、これは明るい歌と思われているが、実はその裏に深い悲しみや絶望がひそんでいるというようなことを書いているが、よく見れば、同じようなことはあちこちに見られる。 世の中には、一読しただけでは、ただのお気楽のようにしか思えない言葉の裏に、強い危機感がひそんでいるということもある。その逆に、現実をよく見ろ、と言っているような人間が、単に現実の表層をなぞっているだけのお気楽人間に過ぎないことだってある。お気楽なことを言ったりやったりしている人間が、単なるお気楽な人間だというのであれば、喜劇役者やお笑い芸人は、みんなただのお気楽者だということになる。しかし、そんな単純なことがはたして言えるだろうか。 表現としての言葉を理解することが、たんにその上っ面をなぞることに過ぎないのであれば、人間の脳みそなどはいらないし、コミュニケーションの能力も必要ない。翻訳だって人間にやらせずに、機械にやらせればすむことだ。機械翻訳が役に立たないのは、文法や文章構造が複雑なせいではない。機械には辞書に書いてあるとおりに言葉と言葉を置き換えることはできても、表現を理解することはできないからだ。 中島敦の 『名人伝』 には、弓というものすら忘れた弓の名人が出てくるが、的を正確に射ぬくことだけが名人の仕事なのではない。他人の文章を読んで、答が書いてないから駄目だなどという人間は、ただ自分の精神の怠惰を露呈しているに過ぎない。答をすぐに教える教師は、だめな教師の典型であるし、世の中には、答のない問題など、いくらでもあるものだ。いちばん困難で大事な問題は、自分で考えていくしかないものだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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