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遠方からの手紙

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カテゴリ:歴史その他

 暑い、暑い。ここ数年、毎年のように猛暑の記録が更新されているのだそうだ。このままいくと、いったい十年後にはどうなるのだろう。海にはサメがうじゃうじゃ泳ぎ、山には熱帯雨林が生い茂るといったことになるのだろうか。

 先日たまたま立ち寄った百貨店で 「古本市」 があったので、軽い気持ちで覗いてみたら、結局最後には、炎天下を10冊もぶら下げてえっちらおっちら帰る羽目になってしまった。まことに痛恨のきわみであるが、なにしろフロアいっぱいに並んだ本どもが、買って、買ってとみなせがむのである。心の中で手を合わせ、ごめんなさい、また今度ね、といって断るだけでも大変だったのである。

 そんなに次から次へと買い込んでどうするのよ、新しい本を買うのは、前の本を読んでからにしなさいよと、つねづね言われているのではあるが、なかなかそうもいかない。なにしろ、古本との出会いは、一期一会とでもいうべきもので、一度買いそびれたら、次にいつ巡り合えるかわからぬものであるから。

 で、その中の一冊が石原吉郎の 『望郷と海』 である。この人のことは、昔々、現代詩なんぞにいれあげていた頃に、清水哲男の弟である清水昶が敬愛する詩人ということで知ったのだけれど、10年も前にちくま文庫に入っていたとはちっとも知らなかった。ちくま文庫なんかは、出たときに買っておかないと、すぐに店頭から消えてしまうし、地方の郊外書店などにはあまり並ばないものだから (おまけに、文庫としてはちょっと高い)。

 石原吉郎という人も三波春夫と同じようにシベリア帰りの人で、抑留経験者というと、画家の香月泰男とか、小説家の長谷川四郎、評論家の内村剛介とか、いろいろな名前が浮かんでくる。たしか、中学か高校の国語の教科書で、梅崎春夫の 「赤帯の話」 という短編を読んだのが、このへんの話を知ったはじめのような気がする。梅崎自身は、シベリア帰りではないのだけれど。

 二葉百合子の 「岸壁の母」 がはやったのも、ちょうどそのころのことだから、その時代までは、そういう記憶が多くの人の間に生々しく残っていたのだろう。横井さんとか小野田さんが帰国したのも、たしかその頃のことである。もっと前のごく小さい頃には、繁華街の角に、ぼろぼろの軍服を着てハーモニカとかラッパを持ち、募金箱を下げた傷痍軍人が立っていたような記憶がある。もっとも、彼らが本物だったのかどうかは分からないけれど。

 うちの同居人の父親はもともと貧しい農家の三男坊か四男坊とかで、口減らしのためによそへ養子に出されたあげく、満州開拓青年義勇隊として満州に渡っていたのだそうだ。ソビエト軍がやってきたときにはまだほんの少年だったおかげで、シベリア送りを免れたというような話を生前にきいたことがある。近衛文麿の息子もシベリアで死んでいて、そのへんの経緯はよく知らないけれど、内村剛介なんかは、なまじロシア語ができたせいでシベリアに連れて行かれたらしく、まさに 「人間万事塞翁が馬」 である。

 その石原吉郎の 『望郷と海』 にあった一節

 私は広島について、どのような発言をする意志も持たないが、それは、私が広島の目撃者ではないというただひとつの理由からである。しかし、その上で、あえて言わせてもらえるなら、峠三吉の悲惨は、最後まで峠三吉ただ一人の悲惨である。この悲惨を不特定の、死者の集団の悲惨に置きかえること、さらに未来の死者の悲惨までもそれによって先取りしようとすることは、生き残ったものの不遜である。それがただ一人の悲惨であることが、つぐないがたい痛みのすべてである。

 さらに私は、無名戦士という名称に、いきどおりに似た反発をおぼえる。無名という名称がありうるはずはない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである。不幸にして、その一つ一つを確かめえなかったというのであれば、痛恨をこめてそのむねを、戦士の名称へ併記すべきである。

 ハバロフスク市の一角に、儀礼的に配列された日本人の墓標には、今なお、索引のための番号が付されたままである。

「確認されない死の中で」1969

 こういう言葉は、収容所と強制労働の日々を生き延びた、シベリアからの生還者である人だからこそ、言えるものではあるかもしれないけれど。






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Last updated  2009.02.06 20:45:18
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